比々多神社(ひびたじんじゃ)
比々多神社  
 祭神

  豊國主尊
  稚日女尊
  天明玉尊
  日本武尊
  大酒解神(大山祇神)
  小酒解神(木花開耶姫神)
 
 
 旧社格等

  式内 相模國大住郡
  比比多神社
 
  相模國三之宮
 
  旧郷社
 
 
 住所

  神奈川県伊勢原市三ノ宮
1468
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社 御由緒
 
 
 神武天皇六年、国土創建民族興隆を祈念し、日本国霊として当社を創建したと伝えられる。
 崇神天皇の御世、神地神戸を奉られ、文化元年(六四五)社殿修復の際木彫りの狛犬一対(市重要文化財)を奉納、又、此年に酒解神を合祀、うずら瓶(県重要文化財)を納められた。
 天平十五年(七四三)大宮司に武内宿弥の後孫、紀朝臣益麿を迎えて初代宮司に任命、勅して荘園を賜う。真田をを称す。
 天長九年(八三二)六月、国司橘朝臣峯嗣を勅使として相模国の総社として冠大明神の神号を奉られた。
 鎌倉時代にはいり、将軍源頼朝が文治元年(一一八五)に国土安泰の御願書を奉り、建久三年(一一九二)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された。
 南北朝室町時代に戦に巻込まれ神領の大半を失い衰微したが、徳川時代、当社が相模国の名社であることを知った家康公より社領を新たに寄進され以下十四代将軍まで続いた。よって社運も持直し明治時代には社格は 社として社格制度廃止後指定神社となる。
 
 
鳥居
鳥居
 
 比々多神社は延喜式記載の相模国大住郡比比多神社に比定されている式内小社で、鈴川と栗原川に挟まれた大山南麓の小高い緩傾斜地に鎮座しています。
 
 社名の比々多ですが、これは鎮座地の地名から発生した名称だとする説が有力です。比々多は現在ではヒビタと読みますが、古くはヒヒタもしくはヒヒダと読んでいました。『式内社調査報告』によると、「比」は甲類の音仮名で「日」の用字に、「多」は音仮名としては甲類・乙類の区別はないが「田」の用字に当てられていることから、比比多は日日田、つまり良田を意味する地名であったとしています。
 
 
 
 最近でも市町村合併によって地名が大きく変化してしまったところが少なくありませんが、過去にも国策によって各地の地名が「好字二字」に改められたことがあります。『続日本紀』の和銅六年の詔に「畿内七道諸国郡郷の名、好字を著けよ」、また、これを受けた『延喜式』に「凡そ諸国部内郡里等の名、みな二字を用い、必ず嘉名を取れ」とあるのがそれで、奈良時代に各地の地名を好字に改め、かつ二文字化したことが記録されています。
 
 
宮鐘
宮鐘
 
 これに従って、例えば「ムザシ」の国は「无邪志」などと書かれていたのを「武(ム)」「蔵(ザ)」の好字をあてて二字化し、「シ」の音にあたる字は略して「武蔵」と表記するようになりました。『式内社調査報告』および『相模の古社』では、この和銅六年の詔に従って「比比多」の三字を好字二字に改めたのが、他ならぬ『和名抄』大住郡の項に記載されている「日田」郷であると推測しています。『延喜式神名帳』に記載されている神社の多くは好字二字令以前にその起源が遡れるでしょうから、社名の方には比比多という表記が残ったという訳です。
 
 
拝殿
拝殿
 
 ところで式内比比多神社には江戸時代から式内社を名乗る論社が二社存在しています。一社はここに挙げた三之宮比々多神社、もう一社は伊勢原市上粕屋に鎮座している比比多神社(子易明神)で、こちらも安産と子育ての霊験で知られる伊勢原の名社です。
 
 『新編相模国風土記稿』には「両社共考証なく、是非弁じ難し」とありますが、『式内社調査報告』では、1)古くは『吾妻鏡』の中にも当社を指して三之宮と記してあること、2)相模国の一之宮から四之宮の神輿が参集する国府祭に当社が三ノ宮として参加していること、を挙げて伊勢原市三ノ宮の比々多神社が式内社であると結論づけています。
 
 諸国に一之宮等の呼称が成立したのは平安時代末期のこと。また、国府祭もその起源は平安時代と考えられる由緒ある祭りで、当社の他に参加する一之宮から四之宮の諸社がいずれも式内社であることから、当社も相応の格式をもった古社だろうと言う訳です。『相模の古社』および『日本の神々 神社と聖地』も同様の考察を載せているので、近年では三之宮比々多神社を式内社とする説が広く支持されているようです。
 
 
 
 創祀の年代はわかっていませんが、社伝によると神武天皇の御世に創建とあり、霊峰大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことに始まると伝えられています。
 
 この社伝は江戸時代末期に書かれた縁起書を敷衍したものですが、一方で延宝四年(1676年)の宮鐘には「聖武天皇の御世、当地に玉宮を創建して染屋太郎太夫時忠の霊を祀り……」と、現在の社伝とは全く別の縁起伝承が存在していたことも知られており、江戸時代のはじめ、比々多神社の組織に大きな変動があったことが伺い知れます。
 
 
下谷戸縄文遺跡
境内に復元された環状列石と縄文住居跡
 
三之宮三号墳
古墳の石室 社地周辺には古墳も多い
 
 神社に伝わる伝承以上のことはわかりませんが、鎮座地周辺からは縄文時代の住居跡や祭祀遺構と考えられる環状列石なども発掘されていて、この地には相当古くから人々が住みつき集落を営んでいたことがわかっています。
 
 一口に縄文時代と言っても、そこには何千年もの長い時間が横たわっているので、発掘された遺構をもって直ちに比々多神社の起源が縄文時代にまで遡れると言い切れるものなのかどうかは難しい問題だと思いますが、少なくとも比々多の地が悠久の過去から重要視されてきた土地であることは確かです。おそらく、その土地に鎮座する比々多神社の起源もかなり古い時代にまで遡れるのではないでしょうか。
 
 
 
 現在は主祭神に豊国主尊・稚日女尊・天明玉尊・日本武尊、相殿神に大酒解神・小酒解神を祀る比々多神社ですが祭神については昔から諸説あり一定していません。列挙すると以下のようになります。
 
 1)染屋太郎太夫時忠(延宝四年の宮鐘の銘文)
 2)豊国主尊・天明玉命・稚日女命、相殿に大酒解神・小酒解神(比々多神社伝)
 3)豊斟野尊・稚日女命・天櫛明玉命・倭武尊・大山祇命・木花佐久夜姫命(比々多神社伝記の一説)
 4)豊国主尊・天明玉命・稚日女命、相殿に大酒解神・小酒解神・日本武命(神社明細書)
 5)大酒解神・小酒解神(日本総国風土記)
 
 これらの神々がどのような経緯で祭神とされるようになったのかは不明ですが、『式内社調査報告』はそれぞれの祭神について以下のように考察しています。
   
 
 ここに挙げた説のごときも、近世における祭神観の変遷もしくは発達を示すものであって、一に神主大貫忠記や別当能満寺執翁崇拂などの信仰に基づいていよう。そしてその拠るところは、1)については阿夫利神社縁起であり、2)3)4)に関しては古事記・日本書紀・古語拾遺・新選姓氏録等の古典であったろう。相殿神の倭武尊・大山祇神・木花佐久夜姫命についても、遡れば阿夫利神社縁起に拠っていよう。ただし、かく感得するに至ったのには、別個の理由が存していたもののように思われる。本社には神体として、少なくとも鎌倉の往代に遡るであろう三躯の木彫立像が安置されている。そのうち二躯は男神像であり、一躯は女神像である。恐らくはこうした事実に基づいて、やがてその祭神を豊国主命・天明玉命・稚日女命などとするに至ったものでなかろうか。
               (式内社研究會・編 『式内社調査報告 第十一巻』 昭和51年 皇學館大學出版部)
 
 
 
 
 
 中世以降に近在の大山修験が大きな勢力を有するようになったためか、どうも比々多神社の祭神には大山縁起の影響が強く表れているようです。例えば祭神を染屋時忠とする説は、「(大山寺を開山したと伝えられる僧良弁の父を指して)父、則ち大隅郡三宮の大明神是也」と記された内容を受けたものと考えられています。大酒解・小酒解神についても大山祇命・木花佐久夜姫命と社宝として伝わる須恵器の鶉甕(『相模の古社』には酒瓶とある)から着想されたものではないかと個人的には思っています。
 
 
拝殿
拝殿
本殿
本殿
 
 こうしてみると現在の祭神はいずれも近世になってからとなえられたもので、元々どのような神が祀られていたのかは不明と言うのが現実のようです。
 
 それでは、比々多神社の当初の祭祀とはどのようなものだったのでしょうか。もちろん今となっては確かなことは何も言えないのですが、『式内社調査報告』は「そもそも神社の祭神は不定とすべきものが少なくないのであって、本社にあっても「比比多に坐す神」とでも言う他ないのではあるまいか」としながらも、以下のように推測しています。
 
 
   
 
 その社名や郷名の「比比田(日日田・日田)」よりするに、はやくこの地には開拓の事業が捗み、かく名づける良田も営まれ、幾多の農民を蝟集せしめるとともに、やがて一郷をも形成するに及んだが、思うに、本社はこの開拓の草わけびとたちによって、その守護神・産土神としていつきまつられたのに起源を発するものであったのではなかろうか。
               (式内社研究會・編 『式内社調査報告 第十一巻』 昭和51年 皇學館大學出版部)
 
 
 
 また、『日本の神々 神社と聖地』は当社が中世に冠大明神と呼ばれていたことに関連してその起源を述べています。
   
 
 当社は「冠大明神」ともいわれていたが、この名については、社殿裏に立って大山を仰ぎみれば、おのずとその由来がわかるであろう。社殿の真後ろに聳え立つ大山の偉容は冠そのものに見える。おそらく当社は、相模国一の名山である大山を遥拝する宮として出発したのであろう。
                      (谷川健一・編 『日本の神々 神社と聖地 第十一巻』 2000年 白水社)
 
 
 
 
 
 訪れたのは五月の初旬。神社に併設された広い駐車場に車をとめて参拝。現在の比々多神社は伊勢原あたりの平野部からは一段小高い場所に鎮座していて、遠く平塚から大磯の辺りまで遠望することができます。周囲には大きな畑や果樹園が広がる、日差しが優しい穏やかな場所。
 
 
秋葉神社
秋葉神社
金比羅神社
金比羅神社
 
 鳥居をくぐると砂利のひかれた広い境内。拝殿に向かって参拝路が伸びています。拝殿の前には狛犬ならぬ兎の像。こちらはその年の干支にあわせて替えているそうです。
 
 比々多神社周辺には古墳や遺跡の類も多く、神社の裏手には東名高速道路の工事で見つかった下谷戸縄文遺跡が移築され、住居跡や環状列石が復元されています。
 
 
 
 
 参道には狛犬が一対。昭和とか岡崎とか言われるタイプのもの。銘がなく建立年等は不明です。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
 
 
境内社
境内社
 
 本殿背後には境内社が並んでいます。左から、
 
  白山神社
  弁天社
  神明神社
  東照宮権現社
  稲荷神社
 
 
 
 
 ところで、比々多神社には併設して郷土博物館が建てられています。一部屋程の小さな博物館ですが、ここには七世紀の作と伝えられる木彫りの狛犬もおさめられています。好きな人はぜひ立ち寄ってみて下さい。
 
 
 
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           比々多神社 訪問
2011/5  
                 登録
2011/6/3