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祭神 石楯尾大神 旧社格等 式内 相模國高座郡 石楯尾神社 旧郷社 住所 神奈川県相模原市緑区名倉4524 |
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神社 御由緒 |
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天然の神籬磐境であるエボシ岩関係の神様の必要あって御くだりになった所の産土地に建てられた産土の神社であるので、総産土神と申しあげ、高位の神々様が数多くお鎮まり遊ばされて居り、創立は今より二千年以上前の、崇神天皇より前のようであり、応神天皇が御臨幸遊ばされたとの記録もある。
今から一千百二十年前の文徳実録に、天安元年五月丙辰、従五位下石楯尾神官社に預かるとあり、相模国只一社の官社である。 今から一千八十年前の醍醐天皇の御代編纂の延喜式の神名帳に相模十三社の一の延喜式内社と記録されている。 源頼朝が祈願所として御墨印七十五石余を寄進、七つの大鳥居を建てたと、今神社の近い所に鳥居原の地名が残っている。 後柏原天皇文亀三年(四七五年前)二条関白殿下十六世後胤監物大夫陽近が勅使として参向、本殿等七十五ヶ所の御造営をした。 奥三保十八ヶ村・川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村総社として崇敬されたが、三増合戦の禍を受け、東山天皇永禄十二年(四一二年前)十月十八日、武田信玄の為、社殿悉く烏有に帰し、古記録まで焼失した事は惜しい事であった。 後に再建されたが、享保二年祝融の災いにあい、現在の社殿は、中御門天皇享保九年(二五三年前)に建築されたもので、光格天皇文化五年(一七二年前)文化六年には神祇官より幣帛が献上されて今に残り、明治六年社格制定に際しては、津久井郡内只一社の郷社に列した。明治四十四年末社が合併され、大正十二年二月五日神奈川県告示第二十六号により、幣帛指定神社に指定され、昭和四十三年一月二十四日神奈川県神社庁献幣使参向神社に供進された。 ※由緒確定までの経過 私が神職になった大正十一年の頃は、神社明細帳の由緒は「元亀元年焼失につき不詳」となって居て、困った事だと思った。津久井郡内只一社の郷社であるので、国では資料があると思い、神社昇格願・明細帳訂正願など文献を調査して七回出し、二十ヶ年の歳月を要して、昭和十七年一月二十六日、神社明細帳の訂正が許可され、延喜式内社である事を国家が承認した。 昭和二十年敗戦により、世が混乱し、自由の世となり異説が出て来た。之を正すために、御祭神の御導きによる実態の御示し、正論の証明が過去の文書として発見され、之により、名倉の石楯尾神社が延喜式内社である事が実証された。これまで六十五年の歳月を要した。尊い石楯尾大神の御導きの賜であるので付記する。 |
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石楯尾神社は延喜式記載の相模国高座郡石楯尾神社に比定されている有力論社の中の一社で、桂川右岸の丘の上、名倉集落から少し離れた森の中に巨木に囲まれひっそりと鎮座しています。 社名の石楯尾ですが、これは鎮座地の地形から発生した名称だとする説が有力です。『式内社調査報告』によると、「石楯」は岩盤が楯のようになった形状をさし、「尾」は岡を意味するとしており、楯のように屹立する大岩石を祭祀の対象として祀ったのが石楯尾神社の起源ではないかと考えられています。 記録もない時代のことなので詳しいことはわかりませんが、創建以後も篤く崇敬され続けたことは確かのようで、歴史時代に入ると中央にもその名が知られ、初めて国史に登場するのは857年のこと、「相模国に在す従五位下石楯尾神官社に預かる」という記述が文徳実録に見えます。また、石楯尾神の列官社の記事と前後するように、同じく相模国高座郡の寒川神、有鹿神がしばしば神階を進めていますが、これらはこの時期に高座郡の開発が急速に進み、中央からも注目されるようになった結果であると理解されています。 |
![]() 社号標
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![]() 鳥居
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このように古くから人々の信仰を集め延喜式にもその名が記載された石楯尾神社ですが、長い年月を経るうちに由緒や歴史が徐々に忘れられ、現在ではその所在がはっきりと判らなくなってしまいました。江戸時代からずっと議論が続いていますが、論社と呼ばれる候補社のうち、いずれが式内社であるのか現在でも明確な答えは出ていません。式内石楯尾神社の論社を列記すると以下の七社になりますが、この中でも佐野川の石楯尾神社と並んで最も有力視されているのが、ここで紹介する名倉の石楯尾神社になります。 |
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【式内 石楯尾神社の論社】 1)石楯尾神社(相模原市緑区名倉4524) 2)石楯尾神社(相模原市緑区佐野川3448) 3)石楯尾神社(相模原市南区磯部2137) 4)諏訪神社 (大和市下鶴間2540) 5)諏訪明神 (座間市入谷1-1568) 6)諏訪明神 (相模原市緑区大島594) 7)皇大神宮 (藤沢市鵠沼神明2-11-5) ※ 神社名クリックで地図に移動 |
![]() 急な石段
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![]() 随神門
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現在では石楯尾大神を主祭神とし、事代主神、日本武尊、守良親王、木花開耶姫命、保食神、天村雲命、中筒男命、天児屋根命、火産霊神、埴山姫命、水波能売神、菊理姫命と多くの神々を配祀している名倉の石楯尾神社ですが、文亀三年(1503年)の棟札には「名倉権現宮」と記されており、『新編相模国風土記稿』には「祭神は蔵王権現なり」とあって、古くは蔵王権現を称していたことがわかります。明治の神仏分離以降は祭神を日本武尊としていたこともあったようですが、その後は石楯尾大神を主祭神として現在に至っています。 |
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創祀の年代はわかっていませんが、社伝によると崇神天皇の時代よりも前に鎮座されたものと云われ、天安元年に官社に預かり、寿永元年には藤原左府広信が勅宜を蒙って再興したと伝えられています。 神社に伝わる伝承以上のことはわかりませんが、先の文亀三年の棟札によれは、当社は奥三保十八ヶ村、川入郷七ヶ村、あわせて二十五ヶ村の総社であったことが記されていて、室町時代には旧津久井郡や愛甲郡の一部までも信仰圏に含んだ相当な勢力を誇った神社であったことが窺い知れます。 |
![]() 本殿
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![]() 拝殿
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ところで、数ある論社の中でも名倉の石楯尾神社が特に有力視されているのは、このように近隣の諸郷から深く崇敬され続けた歴史もさることながら、社号の「石楯尾」と鎮座地の地形とが良く一致するという事実が大きいものと思われます。 例えば『相模の古社』では、当社の社殿が以前は現在地より300m西の崖の上にあって、下方には川面から垂直に半円形の大岩盤が聳え立っていることに触れ、「まさしく社号の石楯というのにぴったり適合する」と述べています。 『式内社の研究』もほぼ同様の見解を載せて名倉の石楯尾神社を式内社にあてており、また、当社が上古以来広く信仰をあつめた背景を以下のように推測しています。 |
この(鶴島)部落から東を見ると、巨大な岩壁が目につく。それは高さ百メートル、横巾は百五十メートルほどで、半円形にくぼみ、楯のようで、垂直に河岸に立っている。まさしく社号の石楯に相応しい。この岩の上に旧社地があったから、そこがちょうど石楯の尾に当たるところである。けだし古代人は峰や丘のことを尾と呼んだのである。 例 頓丘(ヒタヲ)(神代紀下) 実際にこの崖の上は丘になっている。今から数千年の昔、この地方の人々は、太陽の下に美しく輝く岩肌を仰ぎ、その神秘に驚き、これを神として、後には磐上に神社を建てたのであろう。(中略) (室町時代に広く信仰を集めた)その遠因は千年以前の当社の神威に基づくもので、巨大な岩石の神秘性が村人の脅威の的となり遠近相伝えて、信仰圏が漸次拡大したこと、加えてその位置が相・武・甲三州の国境に近かったことである。されば国境防衛の楯石の神として、また相模川上流の水神及び水防神として、早く国司の耳に入り、中流の有鹿神、下流の寒川神についで、従五位下の官社になったものと思われる。この三神のみが国内において叙位されているのは、当国第一の平野を造った相模川の神だからであろう。就中当社の神が特に尊重されたのは、国境守護に相応しい石楯尾神の故であろう。 (志賀 剛 『式内社の研究 第六巻』 昭和59年 雄山閣) |
以上の諸説によれば、名倉の石楯尾神社を式内社とすることに特別異論はないように思われますが、これには一点無視できない問題が残ります。と言うのは、延喜式では石楯尾神社の所在地を高座郡としているのに対し、名倉の石楯尾神社の鎮座する旧津久井郡は当時愛甲郡に属していたと考えられているからです。『式内社調査報告』は「地形から考えると現在の論社中、津久井郡名倉の石楯尾神社がこの形状に最も近い」としながらも、以下のように否定的な見解を示しています。 |
![]() 鶴島集落から旧社地遠景
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吉田東吾は『地名辞書』に「旧説、津久井は愛甲、高座の地を割きたりと云い、又愛甲郡餘戸郷の地なりと云うは、并びに誤れり、和名抄、甲斐國都留郡相模郷と載す、此郷は延暦中、早く相模國(愛甲郡ならん)へ改隸せしめられしも、彼書は旧籍に依りて録せる者のみ」とのべ、もともとは甲斐國都留郡相模郷の地域であった津久井が延暦十六年(七九七)砥澤以東が相模國に定められてからのち、愛甲郡に属したという。この地は中世には奥三保とも称し、江戸期に入ると新しく津久井郡としたが、のちに廃して河北を高座郡、河南を愛甲郡に属せしめ、再び統合して津久井縣とした。これによれば、古くは佐野川と名倉の地域は高座郡ではなく、したがって両石楯尾神社を式内社とするのは誤りとしなければならない。 (式内社研究會・編 『式内社調査報告 第十一巻』 昭和51年 皇學館大學出版部) |
名倉の石楯尾神社が式内社であるのかどうか、今となっては確かなことはわかりません。とは言うものの、当社が巨石信仰に起源を有する上古以来の名社であることに変わりはなく、仮に式内石楯尾神社は別にあるとしても、その本源地が名倉の当社である可能性は十分に考えられるのではないかと思います。 |
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![]() 二本杉
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訪問したのは七月の下旬。神社に併設された駐車場に車をとめて参拝です。 駐車場から車道を下ると木漏れ日落ちる木々の中に雰囲気の良い石の鳥居。急な石段を登ると朱色の随身門が迎えてくれます。社殿も境内も小さなものですが、巨木も多くいつまでも滞在したくなるような気持ちの良いところでした。 |
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本殿裏手には二本杉。『新編相模国風土記稿』に「神木老杉二株あり 囲み各一丈余」とあるのはこの巨木のことだと思います。 神奈川県指定天然記念物 石楯尾神社(名倉)の二本杉と社叢 式内社に列した石楯尾神社がある桂川に沿った山腹斜面や土壌の浅い岩状立地には、高木層にケヤキ、低木層にアラカシ、草本層にコカンスゲなどをともなっている。社叢内のウラジロガシ林は群落としては幅がせまいが、林床は安定しており、かつてこの地方を広く被っていた自然林のおもかげを残している。このウラジロガシ林の斜面下部はイロハモミジ、ケヤキ林が育成している。社殿東手の凸状の台地上はアラカシと混生するシラカシ林が認められる。以上三つの植物群落の周囲には、北斜面にコナラの二次林が優占しており、台地上や庇端にはアカマツやスギの高木が存在する。境内の中央に御神木とされる夫婦杉が枝葉よく伸び姿整う典型的な二本杉となっている。 この二本杉を含む社叢を郷土景観的にも、学術的にも重要なものとして天然記念物に指定する。 |
![]() 二本杉
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拝殿の前には昭和初期の狛犬が一対。団子鼻が愛らしい。 |
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![]() 狛犬(左)
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![]() 狛犬(右)
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昭和三年九月建之 |
![]() 狛犬(背中)
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![]() 愛嬌のある顔つきだ
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八王子市 納主 倉田卯吉 |
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境内には数多くの小祠が鎮座。『新編相模国風土記稿』には末社として「八幡、子守、浅間、飯綱、山王、稲荷、四名宮、役行者」の八社が記載されています。『津久井郡神社誌』は「神社と関係深い姓氏について」という項目で「各氏族は自己の住所に近く小氏神を奉斎し、更に大氏神の境内にも小氏神を奉斎しその関係を密にして居った」と述べているので、境内に鎮座している小祠のいくつかは石楯尾神社を大氏神とする各氏族の祀ったものだと推察されます。『津久井郡神社誌』はそれぞれの氏神について更に詳しく説明していますが、これによると各氏族とその氏神は以下のように対応するようです。 子守大明神(河内氏神)、日月両宮(和智氏神)、野田八幡大神(中村氏神) 若宮八幡大神(浜名氏神)、天満天神(助三郎・小六氏神)、八幡大神(野崎氏神) 藏祖大権現(宮野氏神)、春日大明神(倉田氏神)、山王大権現(宮崎氏神) 三分二朱大権現(鈴木氏神)、飯綱大権現(倉田小氏神)、稲荷大明神(倉田小氏神) また、野崎氏の奉斎する八幡大神について「野崎の小氏神八幡神社の境内が現今の石楯尾神社の境内である」とも記してあり、境内社の中でも八幡神の祠が特に立派なのはそういう背景があるからかもしれません。 |
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浅間神社 前の山よりうつす 日月両宮 和智の子氏神 坊原の西端 日月からうつす |
![]() 浅間神社 日月両宮
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![]() 大黒様
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福の神 大黒様(大国主命) 昔 富士神界の中心地のなごり (日待も行なはれた) |
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住吉神社 上地敷よりうつす |
![]() 住吉神社
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![]() 榛名神社
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榛名神社 大刀 八木沢からうつす |
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春日神社 倉田の子氏神 坊原(大明神)よりうつす |
![]() 春日神社
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![]() 境内社
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天満天神宮 痘瘡神社 稲荷神社 西川(駒地)からうつす 藏祖神社 宮野の子氏神 中村原(ご判行)からうつす |
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稲荷神社 昔から鎮座 |
![]() 稲荷神社
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![]() 御嶽神社
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御嶽神社 前山( 久保)からうつす |
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八幡神社 野崎の子氏神 |
![]() 八幡神社
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石楯尾神社 訪問 2011/7 登録 2011/9/8 |