海南神社(かいなんじんじゃ)
海南神社  
 祭神

  藤原資盈
  盈渡姫
  地主大神
  天之日鷲命
  筌竜弁財天
 
  菅原道真公
  豊受気比売大神
  速須佐之男大神
 
 
 旧社格等

  旧郷社
 
 
 住所

  神奈川県三浦市三崎
4-12-11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社 御由緒
 
 
 当社の祭神、藤原資盈公は、藤原鎌足の後裔、九州大宰少弐広嗣の孫に当りますが、五十六代清和天皇の皇位継承の争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかったため、善男と不和となり、故あって九州博多を出航、貞観六年(八六四年)十一月一日、当地に着岸されました。その後資盈公は土地の者に推戴され、付近の海賊を平定したり、里人を教化して文化の基いを築きました。よって、里人の尊崇の念篤く、治績わずか二年ではあったが公の没するやそのなきがらを海に沈め、祠を花暮に建立してこれを祀りました。後、天元五年(九八二年)に現地に社殿を造営し、三浦一郡の総鎮守として崇められ明治六年六月、郷社に指定されました。
 三浦大介義明が源頼朝挙兵のとき、源平の争覇を当社に占った際、白と赤の狐が闘って白い狐が勝ったので、源氏方に荷担したと伝えられます。境内には頼朝公手植と伝えらえる大銀杏(樹齢約八百年)があります。また御手洗池に架かる神橋の擬寶珠は、三崎御船奉行向井左近将監忠勝が寛永十七年(一六四〇年)に奉納されたものであります。
 また毎年正月十五日に当社に奉納する歌舞「ちゃっきらこ」は、資盈公の妃、盈渡姫が土地の娘に教えたとの口碑があり、また歌舞島に遊んだ源頼朝公の旅の慰めにと、里女の歌に合わせて、童女達が即興的に小竹を叩いて踊ったとも伝えられており、昭和四十年五月、神奈川県の無形文化財に指定されました。
 
 
 海南神社は『新編相模国風土記稿』の三浦郡衣笠庄三崎町の項に海南明神社(三浦郡の惣社)として記載されている旧郷社で、観光客で賑わう三崎公園から商店街の小道を進んだ先、緑濃い鎮守の杜の中に、長い歴史を感じさせる堂々とした姿で鎮座しています。
 
 社伝によると、神社の創建は貞観八年(866年)のこと。三崎の地に漂着し住民の教化に功のあった藤原資盈の遺徳を偲んで、その死後に祠を建立し祭神として祀ったのがその始まりであると伝えられています。
 
 
鳥居
鳥居
境内
境内
 
 社名の海南には何か意味がありそうですが、社殿が海に向かって南面しているためとか、海難に由来するとかいった説があるものの、いずれも論拠に乏しく、はっきりした事はわかっていません。
 
 現在は主祭神に藤原資盈・盈渡姫・地主大神・天之日鷲命・筌龍弁財天、相殿に菅原道真・豊受気比売大神・速須佐之男大神と多くの神々を祀る海南神社ですが、『新編相模国風土記稿』には「藤原朝臣資盈の霊を祀る」とあるので、現在の祭神のうち海南神社を特徴づける祭神は、藤原資盈・盈渡姫の夫婦神ということになりそうです。
 
 
 
 それでは御祭神・藤原資盈とはどのような神なのでしょうか。これについては、天元五年(982年)に三崎の豪族・香能連(かのれ)の口伝によって書かれたと伝えられる神社の縁起書が今でも残っていて、『新編相模国風土記稿』にもその概略が記されていますので以下に引用してみたいと思います。
 
 
拝殿
拝殿
   
 
 社伝の略に資盈は太宰大弐広嗣四代の孫なり。貞観六年、伴大納言善男、左大臣源信を亡ぼさんとの企てありて資盈を語らう。資盈肯わず。善男怒りて資盈謀叛の聞こえありと讒す。此に於いて資盈を追討すべきの勅あり。資盈九州に居事を得ず、父子三人、郎党五十三人を具して海に浮かび十一月一日この地に着す。時に房総の海賊民家を煩わす。資盈是を討って災いを除く。土民尊敬浅からず。同八年十一月一日、夫婦郎党四人相共に没す。その死骸を海に沈め、祠を建て神に祀るという。
                                  (新編相模国風土記稿 巻之百十一 三浦郡巻之五)
 
 
 
本殿
本殿
 
 縁起書によると藤原資盈は太宰少弐広嗣の子孫で、筑肥二州を領して九州は大宰府にありましたが、伴大納言善名と左大臣源信の政争の犠牲になって追討の軍をさし向けられ、海路薩摩を目指して落ち延びる途上で暴風に遇い、夫婦主従六人のみが遥か三崎の地に流れ着いたとされています。資盈は房州から来襲した海賊を撃退したり、里人の教化につとめて三崎の地に在る事二年、漂着したのと同じ十一月一日に夫婦主従共々没し、恩を感じていた里人の手によって神として祀られることになりました。また、家臣四人も諏訪、住吉、梶の三郎山、洲の御前の各社に祀られ、房総半島に流れ着いたとされる資盈の子の資豊は房州洲の崎に鉈切明神として祀られています。
 
 
 
 ところで、ここに登場する人物のうち、藤原広嗣、伴善男、源信らは実在の人物であり、伴善男、源信の反目とそれに続く善男の失脚も「応天門の変」として知られる歴史上の事実です。ところが藤原資盈については国史や藤原氏の系図上にはその名を見つけることが出来ません。『新編相模国風土記稿』は藤原広嗣が九州で謀叛を起こし誅された事件(藤原広嗣の乱)のために、系図には子孫である資盈の名を載せなかったのではないかと実在説をとっていますが、縁起書の記述自体、資盈に関係したことになると途端に物語色が強くなることからしても恐らく架空の人物なのではないかと思われます。
 
 
福徳稲荷神社
福徳稲荷神社
稲荷の狐
稲荷の狐
 
 そうであるなら、資盈・盈渡姫にはどのような神格が仮託されているのでしょうか。もとよりはっきりとしたことはわかりませんが、これに関して『神奈川県民俗芸能誌』は「史籍にないということだけで実在を否定することはできないが」と断りを入れたうえで、「このお二方はおそらく海潮の干満を司どる海神を実在人物化したものであろう」とその神格を推測しています。
 
 また、『神社めぐり 関東・中部編』も同様の説をとり、資盈・盈渡の名前から次のような説明を加えています。
 
 
   
 
 社伝では、資盈の妃盈渡姫としているが、このスケミツ・ミツワタヒメの字の音から思い出されるのは、海幸・山幸の神話(『古事記』上巻・『日本書紀』巻二)である。
 海幸彦の大切な釣針を海中に落とした山幸彦が、海の大神(ワタツミ)の宮殿を訪れ、娘の豊玉媛と契りを結び、大神より授かった塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)で、兄の海幸彦を服従させたという神話に出てくる二つの珠であろう。
 この二つの珠は潮の干満を表現したもので、海南神社の祭神夫婦も潮の干満を人格化し、貴族出身の戸籍を与えて信仰の対象としたものといえよう。
 漁船が小さかった昔は、風浪をことのほか恐れていたものであり、潮の干満が漁の豊凶を左右したことは自然の理である。
 祭神の藤原資盈の資は、たすく、あたう、取る、もちう、よる、謀る、もたらす、などという意味があり、資盈すなわち満潮をもたらす神という意味であろう。盈渡姫は潮が満ち渡るという意味の姫神で、潮の干満を神として祀り崇め、自然との戦いに挑んだ祖先の願いを知ることができよう。
                             (川口謙二 『神社めぐり 関東・中部編』 1997年 三一書房)
 
 
 
 
 さて、以上の説が正しいとするならば、資盈・盈渡姫を主人公とした成熟した伝説が確立する以前にも、三崎の地にはその基層となるような伝説や海神に対する素朴な信仰があったのではないかと推察されます。
 
 実は、出典がやや不明瞭ながら、海南神社の祭神については資盈漂着伝説の他に単に神が流れ着いたとする伝説があるようなのです。『三崎郷土史考』はこの伝説を引用したうえで、古代の信仰と伝説の発展を以下のようにまとめています。
 
 
鈴尾
鈴尾
   
 
 
 海南神社の祭神に就いては、資盈夫婦が漂着して死後神に祭ったという従来の定説の外に、神が流れ着いたという説もある。
 明治四十四年に発刊された下里岬友山人著「みさき」に
 
 海南神社 社は南に向き居るを以って海南と称す 俗説昔 舸船にて流寄る神あり 然る処隣村原の者海藻刈に出て見付 是を取上げ奉りて海難明神と崇む
 
 (中略) 下里氏のこれを書いた原拠は
 
 昔ウツロ舟にて流寄る神有、村里のもの 海藻刈に出て是を取上奉て海難明神と崇む 此の社は海の南へ向う故に其后に海南明神と改むと云う
 
 と明治四十二年の私達郷土史研究グループの聞き書ノートに記されたもの。海難明神にはメカリ明神と仮名がつけてある。 (中略) この流寄る神は資盈漂着よりもっと重要な伝説であると思われる。資盈漂着より前の原始的な神の観念が端的に現れている。資盈漂着はこの原始伝説を母体として、これを聞く者に実在感を与える様な粉飾を加えて実話的に発展したと解されなくもない。
 海から神が来る、その依代(神が宿る物、それは当然遠くよりの目標となるものに通ずる)として浜に高く立てられる幟、海に突出でた岬の先に神が上陸されるという考――みんなそれが古代の我々祖先の思想から生れた神の降臨の形式なのである。そして現代はその思想が亡びて、形式のみが祭りに残っているのである。
                   (内海延吉・編 『三崎郷土史考』 昭和二十九年 三崎郷土史考刊行後援會)
 
 
 
 
 それにしても、どうして都から遠く離れた三崎の地に高貴な都人が漂着したという伝説が定着するに至ったのでしょうか。なんだか少し唐突な感じがしなくもありません。今となっては確かなことはわかりませんが、三崎を含めた三浦半島の沖には「海上の道」として知られる黒潮が流れ、紀伊・伊豆・三浦・房総などの半島部は海上から見ればその玄関口とも言える立地にあることは確かです。三浦半島は昔から他の半島部との繋がりが深く、紀州漁民の集団移住など、黒潮を利用した人や物の流入は近世まで続いていました。三浦半島には、そうした黒潮の流れが文化を運んできた歴史的な背景がある訳です。この伝説そのものが直接外部から運ばれてきたのかどうかは定かではありませんが、古い信仰形式から新しい伝説が発展していく過程にあって、自分達の文化の開祖として西方から海を渡って来たという高貴な人の存在はそれなりのリアリティと親しみをもって迎え入れられたのではないでしょうか。
 
 
 
 
 訪問したのは昨年の七月。少し離れた三崎港の駐車場に車をとめ、そこから歩いての参拝です。
 
 日本屈指のマグロ漁港として知られる三崎町。商店街の両脇にはマグロ料理のお店が軒をつらね、店先からは食欲をそそる美味しそうな匂いが漂ってきます。もっとも、多くの観光客で賑わう通りから一歩路地に入ると静かなもの。小さな路地の先に海南神社。
 
 
神社へ続く路地
神社へ続く路地
御霊神社
御霊神社
 
 神社には多くの境内社が祀られています。神社の鳥居をくぐって左右にあるのが御霊神社と疱瘡神社。
 
 御霊神社は鎌倉権五郎景政を祀り、当地では眼の神様として信仰されています。
 
 
 
 疱瘡神社の祭神は源為朝。為朝は保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になりますが、そこでも持ち前の武勇を発揮して伊豆諸島を支配してしまったという豪の者です。
 かつて疱瘡が大流行した時、大島だけは一人の患者も出ず、これは豪勇で知られる為朝公が寄せ付けなかったからだということから疱瘡神社の祭神として祀られるようになったと言われています。
 
 
疱瘡神社
疱瘡神社
疱瘡神社の鈴
病気平癒の願いをこめて
 
 ところで、この疱瘡神社のあった場所には、もともと地主神が祀られていたようです。神社に伝わる縁起書によると、現在海南神社が建っている場所には海潮寺というお寺があったとされています。この寺のご本尊は地蔵菩薩。境内に海南神社が建てられた後も地主地蔵と称して共に祀られていました。しかし、その後は宮の方が盛んになったためか海潮寺は廃寺となり、地主社に祀られていた地主地蔵もいつしか原の真浄院というお寺に移されてしまいました。ひさしを貸して母屋を取られるというこの現象は、神社めぐりを続けているとしばしば遭遇する現象です。祭神は常に変遷するもの。神様も変わらず安泰という訳にはいかないようです。
 
 
 
 
 以下に残りの境内社を列記。『神奈川県神社誌』には境内社として神明社、金刀比羅宮、天満宮、稲荷神社、御霊社、疫神社の記載がありますが、現地で天満宮は確認できませんでした。高家神社の側に名称不明の小社がありましたが、こちらが天満宮でしょうか?
 
 
金毘羅宮
金毘羅宮
水神龍神社
水神龍神社
相州海南高家神社
相州海南高家神社
大神宮
大神宮
稲荷神社
稲荷神社
大神宮
不明の社 天満宮だろうか
 
 
 神社鳥居前には江戸時代の狛犬。参拝した当日は強烈な日差しが照りつける猛暑日。狛犬にも濃い陰影が刻まれていました。彫りも深く、なかなか精悍な顔つき。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
 
     天保11年庚子□□
 
 
狛犬(背中)
狛犬(背中)
狛犬(横顔)
精悍な顔つき
 
     中嶋屋忠治郎仁興建之
 
 
 
 頼朝寄進と伝わる御神木(大銀杏)の根元には焼き物で作られた狛犬。
 
 
狛犬(右)
狛犬(右)
狛犬(左)
狛犬(左)
 
 建立年などは不明ですが、うねうねした口元が特徴的。なんとも愛嬌のある顔つきです。 
 
 
 一方、神池を渡った先にいるのがどっしりと構えた大型の狛犬。こちらも江戸時代の作です。海南神社にいるのは計三対の狛犬。それぞれ雰囲気が違っていて見る者を楽しませてくれます。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
狛犬(背中)
狛犬(背中)
 
     天保十四
     癸卯年
 
 
 
     三崎
      石工
        庄?之助
 
     江戸
      小石川
        細工人
          久五郎
          保広
 
 
 
 
 
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           海南神社 訪問
2011/7  
                登録
2012/1/17