茅ヶ崎市の神社巡り
芹沢の神社
 
 
 
【目次】
 
 1)
小出地区の概況  
 2)
芹沢の神社・小祠  
 3)
芹沢の寺堂  
 4)
その他(遺跡・石仏など)
 
 
 
 

 ぎゃーぎ婆さん(SZ-a)
 
 
 芹沢の下馬落観音堂近くの路傍に、ぎゃーぎ婆さんと呼ばれる石神が祀られています。地元ではのどを患って亡くなったお婆さんを祀ったものと言われていて、咳に苦しむ人は竹の筒にお茶を入れてお供えし、そのお茶を飲めば病気が治ると信じられていたのだそうです。『茅ヶ崎市史3』では「ぎゃーぎ婆さん――咳気婆さんの意であろう」とその字義を推測していますが、咳気とは咳の出る病気で風邪の事。つまり「ぎゃーぎ婆さん」とは「咳のお婆さん」という意味で、古くは(と言ってもほんのわずか前の事ですが)咳の神様として信仰されていたことがわかります。造立年は寛文六年(1666年)といいますから結構古いものです。
 
 
ぎゃーぎ婆さん
ぎゃーぎ婆さん
 
 
 ここに限らず、咳の神様として石神を祀る風習は関東地方ではわりあい多く見られ、例えば民俗学者の柳田国男氏はその著書『日本の伝説』の中で、東京牛島の弘福寺に「咳のおば様」と呼ばれる石神があることを紹介しています。こちらはお婆さんだけでなく、お爺さんと二つあわせの神様で、子供の咳が出て困る時には豆やアラレ餅の炒り物を持参して煎じ茶と一緒に両人の前にお供えしたのだそうです。面白いことに、良く効く頼み方というのがあって、まずお婆さんの方に咳を治して下さいとお願いした後、次はお爺さんのところで「今あちらで咳の病気のことを頼んで来ましたが、どうも婆どのの手際では覚束ない。何分御前様にもよろしく願います」と言って帰れば、特に早く良くなると評判だったそうです。
 
 
優しそうな顔
優しそうな顔
 
 
 こうした各地にある咳の神様には「姥が淵」と呼ばれる伝説が伴っている場合も多いようですが、どうして遠く離れた別々の場所に同じような伝説や信仰が伝えられているのか、考えてみれば不思議な話です。これに対して、柳田国男氏は同じく『日本の伝説』の中で、「咳のおば様」とは水辺などの境界に祀られた姥神のことではないかとして、「咳のおば神」とは「関の姥神」の事だとする江戸時代の学者、行智法印の説を紹介しています。これによると、「せき」とは塞き留めるの意味の「塞き」で、「サエノカミ」の「さえ」と同様の意味。「関」と「咳」の類似から後には咳の神様として信仰されるようになったという訳です。ただし、ここで柳田国男氏が強調しているのは、咳の神様の信仰が単に「関」と「咳」との語呂合わせから起こったものではなく、その背景には御子神と姥神を祀る母子神信仰があったとしている点です。同書には「姥はもと神の御子を大切に育てた故に、人間の方からも深い信用を受けたのであろう」とありますが、姥神はもともと子供を守る子安神としての性格を持っていた為に、後には主に子供の咳の病気を治す咳の神様として信仰されるようになったと言う訳です。子安神には安産・子育ての神として祈れば母乳の出が良くなるという信仰もありますが、ぎゃーぎ婆さんの前を肌蹴たその姿には姥神としての一面が確かに表れているような気がします。
 
 
路傍に祀られる小さな神様
路傍の小さな神様
 
 
 
 
 

 一寸峠(SZ-b)
 
 
 芹沢の里山公園にある小さな峠です。「一寸」と書いて「ひとあし」と読みます。一跨ぎで越せるような小さな峠という意味でしょうか。写真だと少し分かりにくいですが、中央の道標がある場所が峠で、その右手は柳谷へと下る道、左手は中ノ谷へと下る道です。芹沢は「九十九谷」と呼ばれるほど谷が多いところで、かつてはこのように谷と谷を繋ぐ小さな坂道が数多くあったと言われていますが、「峠」と名のつくのはここ一寸峠だけです。ちなみに茅ヶ崎市内唯一の峠でもあります。古くは腰掛神社の例大祭の折などに神社の神輿が地域の各集落を巡回していたそうですが、ここ一寸峠はその際に神輿が越える通り道になっていたのだそうです。いわゆる「神輿道」ですね。『茅ヶ崎市史3』には浜降祭から戻ってきた神輿が村中の各集落を巡回すると書かれていますが、今でも行われているのでしょうか? 普段は静かな一寸峠ですが、その時だけは束の間の喧騒に包まれるのかもしれません。
 
 
一寸峠
一寸峠
 
 
 
 
 

 追出橋(SZ-c)
 
 
 寒川町との境界、小出川に架かる小さな橋です。追出しとは穏やかではありませんが、別に誰かを追放した所という訳ではなく、かつてここで「虫送り」の行事が行われていたのだそうです。「虫送り」と言われてもピンとくる人は少ないのではないかと思いますが(もちろん私も)、古く農作物の虫害は悪霊の仕業のように考えられていて、かつてはそうした悪霊を追い払うために、藁で作った人形に悪霊をうつし松明をかざして田畑を巡り村境で祀りすてるという行事が全国的に行われていました。農薬の普及などもあって、近代に入ってからは徐々に行われなくなっていったそうですが、かつては初夏の夜を彩る農村の風物詩として人々に親しまれていたのだそうです。芹沢の虫送りがどのように行われていたのか、詳しい事まではわかりませんが、『茅ヶ崎の伝説』には「芹沢近辺の人が害虫駆除に「イネの虫を送れ」っていって大勢の人が太鼓をたたいて賑やかにうたを叫びながら、虫送りをして、あそこにおさめた。寒川との部落境でそこの川に流した」とその様子が記されています。
 
 
追出橋
追出橋
 
 
 橋を渡った先はもう寒川町です。現代の感覚からすると悪霊を追い出された方の村はたまったものではない気もしますが、何も虫送りによって隣りの村にこちらの悪霊を押し付けていたという訳ではありません。古く村境とは単に隣村との境界であるというよりも、そこが自分たちの世界の限界であり、村境から外は別の世界であるとすら考えられていました。虫送りの人形は川に接した村では水辺に流すところが多いと言われていますが、この「川に流す」という行為も象徴的で、川は人間の世界とは違う他界へと続く道だと観念されていたようです。また、ここで送られるのは神そのものだとする考えもあります。古い信仰では神様というのは神社などに常在しているものではなく、時を定めて共同体の外からやって来るものであり、適切な饗応をした後には再びお帰り頂くものでした。こうした神のあり方を「マレビト」という概念で表したのは民俗学者の折口信夫氏ですが、氏は『偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道』という論考の中で「日本の古代からの信仰では、他所から来る者は大きな神であった、精霊は土地の所属となっているのであるから、精霊を他所に送り出すということは、実際は、不可能であったのである。それゆえ、すべての凶害は、他所から来る神に附属せしめて考えたのであろう」として「虫送りの人形は、凶悪な精霊のようにも見えるが、同時に、凶悪を一身に背負って、遠国に去ってくれる主神でもあった」と述べています。虫送りの行事には、このような、神を迎え、迎えた神を再び送り出した、神と人間との古い関わり方が色濃く反映されているようです。
 
 
小出川の田園風景
小出川沿いの田園風景
 
 
 追出橋から延びる道と芹沢の外周をまわる「根通り」の道が交差する三叉路の真ん中に追出地蔵と呼ばれるお地蔵様が立っています。この地蔵菩薩も、例えば、「あの世」と「この世」の境界たる賽の河原にあって子供の魂を救済するものと信じられているように、境界性を強くもった神仏の一つとして理解されています。そうした背景もあって、道祖神同様、峠や村境など境に祀られることが多いとされているのですが、実際にこれほどわかりやすい「境界」に祀られているお地蔵様というのは案外珍しいかもしれません。何の変哲もない小さな橋ですが、その周辺は古い信仰世界が広がるちょっと不思議な空間だったりします。
 
 
追出地蔵
追出地蔵
 
 
 
 
 
 
 
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