川勾神社(かわわじんじゃ)
川勾神社  
 祭神

  大名貴命
  大物忌命
  級津彦命
  級津姫命
  衣通姫命
 
 
 旧社格等

  式内 相模國餘綾郡
  川勾神社
 
  相模國二之宮
 
  旧縣社
 
 
 住所

  神奈川県中郡二宮町山西
2122
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社 御由緒
 
 
 当神は相模国二宮で古くから二宮大明神と称し延喜式所載の名社である。十一代垂仁天皇の朝、当国を磯長国と称せし頃、その国造阿屋葉連が勅命を奉じて当国鎮護のため崇招せり。日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願ありしを始め武将の崇敬深し。
 人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命、皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせらる。一條天皇の御宇永延元年、粟田中納言次男次郎藤原景平、当社の初代神官となり爾来今日に及ぶ。建久三年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。建長四年、宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納めらる。北条相模守、小田原北条、小田原大久保等、皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず。
 徳川の朝に至り家康公、九州名護屋出陣の際、祈祷札を献上殊の外喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。爾来徳川累代将軍に及ぶ。正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり幕末まで続行せり。
 明治六年郷社に列せられ、昭和七年県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。
 
 
鳥居
鳥居
 
 川勾神社は延喜式記載の相模国餘綾郡川勾神社に比定されている式内小社で、海岸から約1km内陸へ入った大磯丘陵の海岸台地上に鎮座しています。
 
 川勾は「カワワ」と読みますが、『新編相模国風土記稿』に「古押切川曲流せし故をもて、此地名起りしと云」とあるように、これは地形から発生した名称と考えられています。カワワとは川輪で川の曲流する様子を意味する地形語なのです。事実、神社の西側には大井町の山中に源を発する中村川(押切川)が流れているのですが、神社のある付近では大きく曲流しながら相模湾に注いでます。社名もこの地名から生じたものと考えられています。
 
 
 
 創祀の年代はわかっていませんが、江戸時代に書かれた縁起書によると垂仁天皇の御世に師長国造である阿屋葉連によって創建されたと伝えられています。
 
 神社に伝わる伝承以上のことはわかりませんが、創建以後も篤く崇敬され続けたことは確かのようで、延喜式神名帳では相模国の式内小社として中央から奉幣を受け、平安後期に諸国一宮の制が成立した際には当社は二之宮とされて現在に至っています。
 
 
山門
山門
 
手水舎と夫婦杉
手水舎と夫婦杉
 
 現在は大名貴命・大物忌命・級津彦命・級津姫命・衣通姫命を祀る川勾神社ですが祭神については幾度かの変遷があったようです。
 
 祭神について記した最も古い記録は江戸中期に川勾神社の神官であった二見忠良が書写した『御祭礼之式伝来写』で、これによると中宮に姫大神、左宮に足仲彦尊・誉田別尊、右宮に大鷦鷯尊・武内大臣とあって、当時は八幡信仰に関係の深い神々を祀っていたことがわかります。
 
 しかし、これらの神々は川勾神社の創建当初から祀られていた祭神ではないようです。八幡神は源氏が信仰して以来武門の守護神としても知られる神ですが、八幡信仰が盛んであった中世には各地の神社に勧請され、元の祭神と置き換わってしまうこともしばしばあったようです。川勾神社においても、おそらく鎌倉幕府が成立した後に八幡信仰の広がりを背景として祀られるようになったものと考えられています。
 
 
 
 このように中世から近世にかけて、川勾神社の祭神は八幡神、あるいは単に二宮明神とされてきた時代が長かったものと思われますが、江戸後期になると状況に変化が見られるようになります。
 
 例えば『風土記稿』・『相中留恩記略』では祭神は衣通姫命・大物忌命・級津彦命であるとされ、明治三年の調書には大名持命・級津彦命・衣通姫命とあって祭神の変遷が見られます。また、現在の祭神に見られる級津姫命は明治以降に奉祀されたものです。『式内社調査報告』ではこれらの祭神について以下のように考察を加えています。
   
 
 江戸末に至って新しく衣通姫命、大物忌命、級津彦命が祀られるようになったのは、古書に通じた二見氏が縁起・古典により式内社川勾神社にふさわしい祭神を奉祀したのであり、とくに記紀にみえる級津彦命は、師長国の「シナ」が「級」に通じることから加えられたのであろう。
               (式内社研究會・編 『式内社調査報告 第十一巻』 昭和51年 皇學館大學出版部)
 
 
 
 
拝殿
拝殿
 
 こうしてみると現在の祭神はいずれも近世になってからとなえられたもので、八幡神以前にどのような神が祀られていたのかは記録上不明と言うのが現実のようです。延喜式神名帳では「川勾神社 一座」とあるので、少なくとも当時の祭神は一柱だったと思われますが、長く八幡神が祭神であった時代に本来の祭神の名は忘れられてしまったのでしょう。
 
 
 
 では、川勾神社が創建された当初に祀られていた本来の祭神について知る術は全くないのでしょうか。これについては川勾神社の鎮座している場所に手がかりがありそうです。
 
 かつて相模国と呼ばれていた今の神奈川県ですが、上古は相武国と師長国の二国に分かれていたと言われています。『和名抄』餘綾郡の項に「磯長郷」とあるのがかつての師長国の遺称で、ここが師長国の中心地であったと考えられています。
 
 
本殿
本殿
 
 
 『和名抄』も地図が掲載されているわけではないので郷の位置や範囲は明らかではないのですが、『式内社調査報告』では磯長郷の位置を以下のように比定しています。
   
 
 餘綾七郷の中、伊蘇郷は大磯・小磯の地、餘綾郷は国府のある国府本郷・国府新宿、霜見郷は二宮村小字鹽海に想定されることから、これにつづく磯長郷は今の本梅澤・越地・茶屋・釜野・川勾のあたりで、地理的にみると川勾神社が師長国造に由緒ある神社であったといえよう。
               (式内社研究會・編 『式内社調査報告 第十一巻』 昭和51年 皇學館大學出版部)
 
 
 
 
 この説に従えば、川勾神社の神とは師長国造の祖神・この地方の開拓神といった性格を持った神、例えば師長の男を代表する「シナガヒコ・シナツヒコ」とでも言うような神であったのかもしれません。
 
 
 
 参拝したのは五月の休日。相模国二宮だけに多くの人で混雑しているものと思っていましたが、のどかな田園地帯の中に鎮座するとても静かな神社でした。鳥居をくぐり石段を上ると古風な山門がお出迎え。なかなか素晴らしい雰囲気です。
 
 手水舎の隣には注連縄を巡らした夫婦杉。

 
 
   夫婦杉 縁結び・安産
 
   川勾神社の御祭神の一柱である衣通姫命
  は允恭天皇と結ばれました。名前の通り美
  しさが衣を通して光輝くといわれ、皇子の
  誕生には当社に安産を祈願したといわれて
  います。
   衣通姫命を縁結び、安産の神様と敬い、
  良縁・安産を願う方は夫婦杉の間を祈願し
  ながらお通り下さい。

 
 
夫婦杉
夫婦杉
扁額
伊藤博文公揮毫の扁額
 
 境内には古い鳥居や伊藤博文公の揮毫による扁額なども残っています。

 
 
   この石鳥居は文久元年第三十三代神官二
  見景賢代に大門参道入口に建立されたもの
  です。昭和四十五年道路改良工事による大
  鳥居新設に伴い撤去されたものです。
   社号額字は明治三十年大磯別邸に住まわ
  れた公爵伊藤博文公の揮毫によるものです。

 
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
 
 拝殿の前には昭和初期の狛犬が一対。昭和とか岡崎とか言われるタイプのもの。

 
 
  二宮中町出生
 
   東京澁谷 田中七五郎
 
    昭和五年六月吉日 建之

 
 
狛犬(後)
狛犬(背中)
 
 本殿の左右には境内末社が鎮座。社名は記してありませんでしたが、これが『風土記稿』に記載のある東五社、西五社でしょうか。
 
 
 
 
 末社東五社  
 
  1)神明・八幡・春日合社
  2)当国式内神十二座合社
  3)菊々理姫・木花咲耶姫・淡島合社
  4)八百万神・阿屋葉連合社
  5)弁天社
 
 
東五社
末社東五社か?
西五社
末社西五社か?
 
 
 末社西五社  
 
  1)仲哀天皇・仁徳天皇・武内大臣合社
  2)素盞嗚命
  3)猿女命
  4)愛宕
  5)天神
 
 
 
 
 気づけばたっぷり1時間近く滞在。格式の高い神社ながらあまり俗化しておらず、鎮座地のある田園風景も含めて心地よい雰囲気の神社でした。
 
 
 
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            川勾神社 訪問
2011/5  
                 登録
2011/5/6