熊野神社(くまのじんじゃ)
熊野神社  
 祭神

  熊野久須毘命
  熊野夫須美命
  速玉男命
  家津御子命
 
 
 旧社格等

  旧村社
 
 
 住所

  神奈川県茅ケ崎市小和田
2-3-66
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社 御由緒
 
 
 当社は、文部省神社明細帳に登録されており、創立不詳なるも元禄元年再建の古棟札あり、相洲大庭荘小和田村鎮守と記されている。後、弘化四年、明治十七年、大正十三年再築の棟札及び熊野三社権現社号の古札あり。
 御祭神 ( 熊野久須毘大神、熊野夫須美大神、速玉男大神、家津御子大神) 熊野大神。熊野大神の御神徳は、海上守護、魚漁、交通安全、殖産、興業、厄難除、家内安全等多くの御利益がある。尚、摂社、姥母神社は、安産の神、病気平癒の神と尊ばれてきた。
 古来、産土神社は住民と密接な神縁があり、初宮詣、七五三祝、結婚、喜寿、米寿祝等、参拝する慣しである。
 
 
 熊野神社は『新編相模国風土記稿』の高座郡大庭庄小和田村の項に熊野社(村の鎮守)として記載されている旧村社で、国道1号線の小和田交差点から狭い路地を進んだ先、往来の喧騒を離れた閑静な住宅地に鎮座しています。
 
 創祀の年代はわかっていませんが、社伝によると熊野信仰が全国に広まった平安時代末頃の創建と伝えられているようです。
 
 
社前の宮鐘と鳥居
社前の宮鐘と鳥居
拝殿
拝殿
 
 神社に伝わる伝承以上のことはわかりませんが、熊野神社が鎮座する小和田の新宿は、古くからの集落である本宿に対しての新しい宿として江戸時代初期に形成された集落であることがわかっているので、創建の年代はともかく、熊野神社が現在地へ鎮座したのは比較的新しい時代の出来事だと推察されます。
 
 このあたりの経緯について『小和田郷土物語』には次のような由来が記されています。
 
 
   
 
 今の東海電極(株)茅ヶ崎工場一帯の地は、通称「おしゃもじ」といわれてきた。「おしゃもじ」とは「御社宮跡」が転化して「おしゃもじ」になったと伝えられている。
 江戸初期迄は、この御社宮跡を中心として家並があったことは、漁場争いの返答文によって伺えるのであるが、或時、この地にあった御社宮の幣束が、砂塵吹きまくる強風にのって天高く舞上り、やがて地上に落ち戻ったのが現在の地であった。これを知った村人達は、すわこそ祭神がこの地をきらわれて新天地にお遷りになられたという訳で、当時田であった現在地を土盛りして社を移し、鎮守熊野神社が再築されたのである。
 以上は古老により承け継がれた伝承であるが、漁場争いの古文書等より推して、確たる防風林とてなかった当時の砂丘の状態が、この御社宮を含めて家屋敷も畑も常に強風ある毎に飛散する砂の難儀に抗し得ない状態になって、結局その住居を今の新宿に求めたと考えられる。
                                  (水嶋善太郎 『小和田郷土物語』 昭和36年 未刊)
 
 
 
 
 ここで言う「漁場争い」とは、江戸時代の寛文三年(1663年)に隣村茅ヶ崎村との間に起こった村境争いのことです。双方共に自分達の漁場が広くなるよう異なった境界を主張し幕府の評定所まで巻込んでの一大騒動となったのですが、最終的には「姥島と菱沼の手白塚を結ぶ線を両村の境とする」という幕府の評決が下って一応の決着を見たようです。ちなみに、この時定められた村境は、国道から海岸に向かって一直線に伸びる道として今でも地図上で確認することが出来ます。サザンオールスターズが好きな方ならラチエン通りと言った方が馴染みが良いかもしれません。
 
 
本殿
本殿
木鼻
獅子の彫刻
 
 さて、話を熊野神社に戻すと、この時の訴状の返答文から当時の小和田村の様子を知ることが出来るのですが、これによると、江戸時代の前までは小和田村の集落の一部が茅ヶ崎村との村境に近い浜辺の方にあり、江戸時代の初めに街道筋(おしゃもじの地)へ移り、最終的に現在の新宿の地に新しく集落を作って移り住んだという事がわかります。
 
 
 
 返答文では、その理由を「砂に吹埋ってしまった為」としているのですが、当時は海岸線から街道筋に至るまで遮るもののない砂丘地帯が広がっていて、吹き荒れる砂塵の被害は相当なものだったようです。現在は住宅地に変わり、かつて砂丘地帯だった面影すらありませんが、付近の高砂という地名や幹の半ばまで砂に埋もれてしまったという「根無し松」の伝承から、当時の砂の猛威を伺い知ることができます。東海道もこの付近では巻き上がる砂のためしばしば通行が出来ず、北側を通る北海道と呼ばれる道に迂回していました。幣束が強風に舞上って……といったことが実際にあったのかどうかはわかりませんが、少なくとも砂塵混じりの強風に苦しめられてきた村人達が、その奉ずる神社と共に集落を点々と移してきた事実は反映されているのではないかと思います。
 
 
社頭
社頭
 
 
 現在は熊野久須毘命および家津御子命・熊野夫須美命・速玉男命を祀っている熊野神社ですが、『小和田郷土物語』の記述からすると以前は社宮司(シャグジ)だったようにも受け取れます。
 
 
姥母神社
姥母神社
 
 社宮司神は信州諏訪を中心とした広い地域で祀られている民俗神で、諸説有りますが、その起源は縄文時代とも考えられている古い神です。「おしゃもじ様」の名でも知られていて、かつては風邪をひくと社宮司に供えられている杓子を一つ借りて帰り、治ったら新しい杓子をもう一つ添えて返納するという風習が広く行われていたといいます。医学の発達した現在では馴染みの少ない神様となってしまいましたが、『茅ヶ崎の伝説』によると、昔は茅ヶ崎市内にもあちこちで祀られていた身近な神様だったようです。
 
 元は社宮司であったのか、社宮司と共に熊野社が祀られていたのかは定かではありませんが、いずれにしても古くは小さな祠程度の小規模な社だったのではないかと思います。恐らく、新宿に集落が出来たのと同時代の開基と伝わる別当千手院・広徳寺の宗教者の手によって徐々に熊野社として整えられていったのではないでしょうか。元禄元年(1688年)の棟札には「相洲大庭荘小和田村鎮守」と記されていることから、その頃には立派な社殿も建てられ小和田村の鎮守となるまでに至ったものと思われます。
 
 
 
 神社の境内には多くの石仏や石碑が安置されていますが、その中に茅ヶ崎市のシンボルとも言える姥島(えぼし岩)を詠んだ次のような歌碑があります。
 
 
   相模なる 小和田が浦の姥島は
 
     誰を待つやら ひとり寝をする
 
 
 この歌碑自体は熊野神社にあったものではなく、元々は尾根大明神という姥島を祀った神社の境内にあったようですが、『小和田郷土物語』にはこの歌にまつわる面白い伝承が記されているのでご紹介します。
 
 
姥神
かつての姥神の祠か?
   
 
 かつて、近衛なにがしという京都の位ある公家が、東海道を東に下って菱沼は今の茶屋付近にあった粟牡丹餅茶屋にしばしの休息の折、遥か南に望見される姥島を見て、茶屋の婆やに、「あの島は何という名で、どこの島なのか」と尋ねた。婆やは、「あの島は姥島といい、小和田のものに御座居ます」と答えた。
 そこで公家はこれを聞いて矢立てを取り、すらすらと短冊に前記の和歌を詠んだという。
 そしてこの短冊は、この茶屋に残り更に本宿某家に伝わり、やがて訳あって藤沢の遊行寺に預けられたというが、その所在は明白ではない。
 この短冊にまつわる次のような伝承も興味あるものである。この頃、伊豆の漁師達は盛んに漁区の拡張を図り、陸より一里以上離れた島は伊豆領であると宣言して、姥島もそれに該当すると小和田村に談判に及んだ。これを聞いた小和田の村人達は、名主以下組頭、百姓惣代一堂に集って種々対策を協議したが、なかなか名案も浮かばず思案に暮れてしまった。その時、名主九右ェ門ふとこの和歌が短冊に書き留められて粟牡丹餅茶屋にあることを想い越し、早速これを証拠として姥嶋は小和田の領分であると主張することが出来たという。伊豆側も高貴な公家の書かれた短冊を見ては、最早強硬な主張も成らず結局引き下がって、小和田村の漁民達も改めて生活権の確立が出来たという訳である。
                                  (水嶋善太郎 『小和田郷土物語』 昭和36年 未刊)
 
 
 
 
 この伝承ですが、京都の公家が和歌を詠んだ話も、伊豆の漁師達と漁場争いを繰り広げた話も、いずれも史実であったのかどうかはよくわかりません。『ふるさとの歴史散歩(茅ヶ崎郷土会、昭和58年)』も「この伝承には潤色された諸説があって真偽のほどは分らない」とした上で、「茅ヶ崎村と小和田村で、浜境争論があり、幕府評定所の裁定をうけた史料的事実があるので、これはこうした背景の中から生れた伝承ではなかろうか」と述べています。
 
 ところで、こうした境にまつわる古い伝説には、旅の高僧や貴族といった所謂「流離の貴種」と呼ばれる人々の果たす役割が少なくありません。この伝承自体は比較的新しい雰囲気をもった伝承ではありますが、東下の公家の和歌によって境が定められるという内容も示唆的で、もしかすると元々は姥島にまつわる古い伝説がこの伝承の基層としてあったのかもしれません。
 
 
竜の彫刻
拝殿幟枠の彫刻
豊受稲荷社
豊受稲荷社
 
 訪れたのは10月の中旬。茅ヶ崎駅から遥々国道を歩いての参拝です。神社まで結構距離がありますが、こうした小さな神社には駐車場がないことも多く、バスや徒歩で巡った方が小回りが効きいて便利なことも多いのです。
 
 
 
 国道から少し奥へ入ったところにあるので社域はとても静か。境内には散歩途中のお婆さんや子供を遊ばせる母親の姿もあって、この身近な感じが町の神社の魅力だと思います。
 
 
神使の狐
神使の狐
石碑
境内社
 
 境内には多くの境内社が鎮座。明治初年に村内の尾根大明神、姥神並びに弁財天など多くの社が合祀された結果です。
 
 尾根大明神は『新編相模国風土記稿』にも「尾根明神社 祭神詳ならず」と見える神社で、江戸時代末の地誌である『我がすむ里』には「元々姥島にあった尾根明神社がしばしば風雨によって破壊されるため小和田村に移された」という事が記されています。また、姥神は小和田の通称「うばがみ」の地に祀られていた小祠で、歯痛をとめる霊験があるとされ参拝する村人があとを絶たなかったと伝えられています。
 
 
 
 境内には他にも石碑の類が多いのですが、達筆すぎて内容がよくわかりません。『神奈川県神社誌』には境内社として「姥母神社、豊受稲荷社、厳島神社、他に八雲神社、尾根神、御嶽大神、天照皇大神の石碑がある」と記載されているので、これらのいずれかだと思います。
 
 
厳島神社
厳島神社
 
 
 拝殿の前には昭和初期の狛犬が一対。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
 
     昭和十三年
      三月吉日建之
 
     施工
     茅ヶ崎町 十間坂
      富田石材店
 
     (奉納者多数につき省略)
 
 
狛犬(背中)
狛犬(背中)
 
 
 熊野神社も日本全国ありふれた神社ですが、こうした小さな神社にもそれぞれ地域ならではの逸話が残されていて面白いですね。一つ一つ丹念に拾って歩けば面白いだろうなとは思うのですが、なにぶん時間がとれないのが悩みどころです。
 
 
 
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           熊野神社 訪問
2011/10  
                登録
2011/11/6