六所神社(ろくしょじんじゃ)
六所神社  
 祭神

  櫛稲田姫命
  素盞嗚命
  大国主命
 
 
 旧社格等

  相模國総社
 
  旧郷社
 
 
 住所

  神奈川県中郡大磯町国府本郷
935
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社 御由緒
 
 
 人皇十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ開墾開発された。
 そしてこの地を「柳田郷」と名付け、彼らの祖神たる櫛稲田姫命、素盞嗚尊、大己貴尊(又の名 大国主命) を守護神として、石上台、又の名伊勢神台 (当鎮座地北西一kmの台地) に祀り社殿を結構し柳田大明神と称して地域の親睦発展は元より、子々孫々に到るまでの弥栄を祈願したのである。この柳田大明神が六所神社の旧名であり、御創建は崇神天皇甲申の年と言われ、今から約二千五十年〜二千百年前である。
 柳田大明神の御加護の元に氏族の人々は心を一つに和して開墾開拓に辛苦努力を重ねられ、東国開発の基礎を固められ又相模国の形成に多大なる貢献をなされた。
 大化改新後国の行政も次第に整い国司の制度が始められてゆく中に、元正天皇の御代養老二年 (七一八年) 閏四月八日、石上台より現在の鎮座地に奉遷。暦勅を以って相模国八郡神祇の中心をなすべき旨宜下された。
 桓武天皇天応元年 (七八一年) 五月五日、早良親王夷賊征討に際し退壌祈願あり。平安時代に入って相模の国府 (今の県庁) が柳田郷に置かれるようになると、柳田郷の地名も相模の国府と称せられるようになった。
 相模国の場合、柳田大明神に、一宮寒川神社、二宮川匂神社、三宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚の八幡宮の分霊を合わせ祀り相模国総社の成立を見ました。又六ヶ所の神社合わせ祀る所から国府六所宮とも称せられるようになった。
 相模国府祭 (神奈川県無形文化財) もこの時代から「お祭り」の性格を持つようになったと思われる。そして鎌倉時代になると、源頼朝の崇敬誠に篤く『吾妻鏡』によると治承四年 (一一八〇年) 十月十六日の条、平家の大軍が平維盛を大将として富士川に攻寄った時国府六所宮にて戦勝祈願を行う。
 同年十月二十三日、源頼朝は北条時政等二十五名の功賞を行う。その規に依り、文治二年 (一一八六年)、本殿の改造が行なわれ、建久三年 (一一九二年) 八月九日、源頼朝の実子実朝の安産誕生祈願の為神馬奉納「総社柳田」と記す。
 建長四年 (一二五二年) 四月十四日、宗尊親王将軍の事始に幣帛神馬を奉納以上の様に源頼朝は総社六所宮に対する敬神の念誠に篤く、又相模国を代表する神社として崇敬し特別扱いをしている。
 戦国時代には戦国の雄北条早雲の崇敬も大変篤く御子氏綱が永正年間 (一五〇四〜一五二〇年) に六所宮の御社殿御造営、又四代目左京大夫氏政公が御本殿の修復を行いこの本殿が現在のものである。
 天文十三年 (一五四四年) 十二月二十三日付の北条氏寄付状があり相州六所領六十五貫七十八文とある。又大納言徳川家康も相模国総社六所宮に対する崇敬の念誠に篤く天正十九年 (一五九一年) 、武運長久の祈願として六所領 (一五〇〇〇坪) 五十石の寄進状御朱印があり、徳川家光は慶安元年 (一六四八年)、 国家安全祈願として五十石の寄進状御朱印があり、以後歴代の将軍の特別なる祈願と六所領の寄進があり明治に到っている。
 
 
 六所神社は『新編相模国風土記稿』の淘綾郡二ノ宮庄國府新宿の項に六所明神社(國府新宿・國府本郷・生澤・虫窪 四村の鎮守)として記載されている旧郷社で、国道1号線から伸びる参道の先、周囲を畑に囲まれた閑静な住宅地に鎮座しています。
 
 創祀の年代はわかっていませんが、社伝によると崇神天皇の御代に創建とあり、出雲地方からこの地に移った柳田氏の一族が当地を開墾開発して柳田郷と名づけ、その氏神である櫛稲田姫命を守護神として祀ったことに始まると伝えられています。
 
 
国道に面した鳥居
国道に面した鳥居
境内
拝殿へ続く石段
 
 当社は、相模国の総社としても知られています。総社は惣社とも書かれ、各所にある神社の祭神を一ヶ所に勧請し合祀した神社のこと。一郡や一郷の総社もありますが普通は一国の総社を指し、その起源は国司が任国の神々を巡拝・奉幣する煩労を省くため国衙の近くに管内の神祇を合わせて勧請したことに始まるとされています。その成立は平安時代中期と考えられていますが、律令法のもとで体系的に定められた制度という訳ではなく、平安時代の末までに順次諸国に広がっていったもののようです。
 
 
 
 相模国の総社が文献に登場するのは治承四年(1180年)のこと。『吾妻鑑』の中に「国府六所宮」と記されているのが初見になります。相模国の国府は大住郡から淘綾郡に移転したことがわかっているので、総社六所宮の成立は国府移転後から治承四年までの間ということになるのですが、残念ながら詳しい年代までは分かっていません。
拝殿
拝殿
本殿
本殿
 
 現在は櫛稲田姫命、素盞嗚命、大国主命を祀っている六所神社ですが、『新編相模国風土記稿』にも「祭神は櫛稲田姫命にして、素盞嗚・大巳貴の二尊を合祀す」とあって、少なくとも江戸時代から現在に至るまで祭神に変更はないようです。後に述べる国府祭の性格からすると、恐らく総社の祭りとして国府祭の祭祀法が確立したときから祭神は櫛稲田姫命で一定していたのではないかと思われます。
 
 では、それ以前、総社となる前の祭神はどうだったのかというと、『新編相模国風土記稿』に「古は柳田大神と号せしと云 柳田は所在の古名なり」とあるように柳田大神と呼ばれていたことがわかります。とは言うものの、風土記稿の記すように柳田は地名に過ぎないので柳田大神がどのような神であったのかはよくわかっていません。例えば、『相模の古社』は「柳田郷の地をはじめて開拓した豪族――あるいは師長の国造であったかもしれない――自身の霊か、それとも彼が氏神として崇敬していた神様であったろうと思われる」とその性格を推測しています。神社の周辺には古墳時代後期の横穴墳墓も数多く見られるので、あるいはそれら墳墓を残した人々と何らかの繋がりがあったのかもしれません。
 
 
 
 
 さて、六所神社では毎年五月五日に相模国の一之宮から四之宮、五之宮格の平塚八幡宮の神輿が参集して国府祭(こうのまち)という祭祀が執り行われます。はっきりとした起源は不明ですが、おそらく総社が成立してからまもなく執行されたと考えられているので千年の歴史を持つ由緒ある祭りということになります。国府祭は五社で行われる神揃(集)山での神事と、六所明神と五社のあいだで行われる大矢場での神事の二重構造になっていますが、祭りを特に有名なものにしているのが神揃山での「座問答」と呼ばれる祭事です。この座問答の次第は『神奈川県民俗芸能誌』に次のように記されています。
 
 @ 二間四方の忌竹の中で一宮の社人が虎の敷皮を神鉾の前の緑地に敷く
 A 次いで二宮の社人が自社の敷皮を、一宮の敷皮の左前方、一宮の敷皮の上部に接して敷く
 B 一宮の社人は敷皮をさらに前方へ進めて敷く
 C 二宮の社人は敷皮を再び前方へ進めて敷く
 D 一宮、同じ動作を繰り返す
 E 二宮、さらに進める
 F 三宮の宮司が忌竹の正面に立ち出て「いずれ明年まで」と唱言し、一宮・二宮の社人は各々敷皮を徹する
 
 
社頭
社頭
 
 この座問答を含めて国府祭の起源については諸説ありますが、一般的に流布しているのが相武国と師長国が合併して相模国が出来たときに、相武国の一宮であった寒川神社と師長国の一宮であった川勾神社とが主導権を争った故事によるものとする説です。三宮である比々多神社に仲裁されて、しぶしぶ引き下がるという訳ですね。『二宮町郷土誌』などがこの説を支持していますが、『式内社調査報告』では「(相武・師長の国が合併したと考えられる)大化前代と国府祭成立の平安末の間には時間的にズレがあり、この説明では納得できない」として「恐らくは大住国府から新たに餘綾国府に総社を創建するに際して、その最も近い距離にある川勾神社が一宮への昇格をねらったのではないか」とその起源を推測しています。
 
 国府祭の起源については他にも諸説あり、『二宮町郷土誌』は賊退治説や柳田明神を母、五社の神を息子とする神話説のあることを記していますが、『日本の神々 神社と聖地』などで支持されているのが六所神社の櫛稲田姫命と五社の男神との間の神婚祭事を意味しているとする説です。
 
 
 
 
 この説を特に詳しく展開しているのが『神奈川県民俗芸能誌』で、これによると国府祭の祭事は全て神婚祭事を意味するもので、座問答もイザナキ・イザナミの二神による国土生成説話を演繹したものであるとしています。『古事記』によると、高天原から天降った二神はオノゴロ島に大きな御殿と天の御柱を立て、柱の周りをそれぞれ左右から回り、はじめに出会ったところで声を掛け合い結婚したとされています。そうして数多くの国土や神々を生んでゆくのですが、座問答はこの神話をなぞった神事であるという訳です。『神奈川県民俗芸能誌』は神揃山での祭事には、当時の最新技術であった陰陽道や修験の祈法が巧みに取り入れられているとし、記紀の国生み神話を祭事で再現する理由を以下のように推測しています。
   
 
 神揃山祭事はこの開闢神話を陰陽道の五行説・四神説に則して祭祀化したものではなかろうか。祭事の中核である座問筈は国土生成説話を演繹したもので、古図に仮屋を描いていることからみても、古くは屋内で行われ、他見を許さなかったのではないか。虎皮は御床を意味し、それを交互に動坐させることはまことに深玄である。神話の岐美二尊が美哉好少男・美哉好少女、と問答するのは示唆的である。省りみて、この祭事を安平祭(平和・太平・五穀豊穣の意)と呼ぶことを思う。この祀法をまた「両神伉儷」という。近年、神婚の文字をあてる(中略) 留意したいのは、この祭事が単に開闢神話の再現を目的としたものでないという事である。両神伉儷(神婚)は農耕儀礼の感応呪として理解される。申せば、動物繁殖の原理を植物(五穀)の豊穣に感応させる古代呪術の一種である。(中略) 古代農耕生活におけるこの呪術は素朴・露骨な方法で行われたが、大和朝廷が律令を制定し、一方、稲作を主軸とする農耕国家の建設を目ざしたことから感応呪の儀軌化、祭祀の国祭化が行われた。これが総社制祭祀の発祥をうながし、その儀軌として採用されたのが陰陽寮の所依する陰陽五行説でなかったか。これに相地四神説・天地人三才思想を織り成して、開闢神話の両神伉儷を厳粛な農耕儀礼としたもの、と仮説したい。それがすなわち、総社制である。
                               (永田衛吉 『神奈川県民俗芸能誌』 昭和43年 錦正社)
 
 
 
 
 この説によれば、三宮の言う「いずれ明年まで」という言葉は「来年もまた」という意味に理解されます。座問答の神事に引き続いて、五社から七度半の使者が派遣され最大の敬意を払って櫛稲田姫命の神霊が迎えられること、一宮と六所神社の神輿が見合いの松の下で祝詞をあげることなどは確かに結婚を連想させます。
注連縄
注連縄
 
 
 もっとも、現在の祭祀の方法が総社の成立時点まで遡り得るのかという問題は残ります。『相模の古社』や『式内社調査報告』では、現在の祭祀のあり方を国府祭の最初の頃から続くものとすることには否定的です。何より千年も前に成立した祭祀ですから、今となっては確かなことはわかりません。しかし、国府祭はもともと二月に祈念祭として執り行われていた祭りであり、この神事が相模国の国魂を再生させ、一年の五穀豊穣・国土の平安を祈った祭事だったことは確かのようです。恐らく、便宜的に国内の神々を集めたという以上に総社には重要な役割が与えられていたのでしょう。『神奈川県民俗芸能誌』は以下のようにその説をまとめています。
   
 
 神揃山の祭事に続いて行われる大矢場の祭事は、岐美二尊の聖婚を、稲田姫と五社の間に感応、成立させるための祭祀である。その祭名の「対面式」とは聖婚の意。これによって五社の神々は農耕神としての霊力を賦活され、その後、相模国の稲作が始まるのである。
                               (永田衛吉 『神奈川県民俗芸能誌』 昭和43年 錦正社)
 
 
 
参道
参道
 
 訪問したのは八月の下旬。境内入口脇の駐車場に車をとめて参拝です。国道から神社まで真っ直ぐ参道が延びていますが、途中、東海道線が参道を分断しているので、狭い高架をくぐってようやく神社にたどり着けます。参道の両脇には注連縄を張られた大きな御神木。
 
 総社というイメージからすると意外に小さな境内ですが、域内は整えられていて清々しい雰囲気。
 
 
 
 
 
 
 境内から短い石段を登ったところに本殿と拝殿。ここには、相模国の一之宮から四之宮、平塚八幡宮の分霊が共に祀られています。
 
 
 
 境内の左右には鯉の泳ぐ神池があって、一方には六所ひぐるま弁天社が鎮座。
 
 
六所ひぐるま弁天社
六所ひぐるま弁天社
六所稲荷
六所稲荷
 
 神輿殿の隣には六所稲荷。
 
 
 
 
 拝殿の前には江戸系の狛犬が一対。銘の部分が欠けてしまっているので建立年等は不明です。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
 
 写真の角度だとやや伏せ目がちに見えますが、実際は階下を睨み付けるように下方を向いています。
 
 
狛犬(背中)
狛犬(背中)
狛犬(尻尾)
尻尾のぐるぐる
 
 細かな造形も見事です。
 
 
 
  >地図 【yahoo! Mapへ移動】
 
  >旅の道標 BLOG 【ご指摘コメント等が御座いましたらお気軽にどうぞ】
 

 >トップページに戻る
 
 
           六所神社 訪問
2011/8  
                登録
2011/10/11