大六天榊神社(だいろくてんさかきじんじゃ)
大六天榊神社  
 祭神

  面足彦命(猿田彦神)
 
 
 旧社格等

  不明
 
 
 住所

  神奈川県横須賀市西浦賀
5-14-10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社 御由緒
 
 
 川間(西浦賀町五丁目)の鎮守様で、主祭神は面足彦命(猿田彦神)です。
 この神社の正式名称は榊神社大禄天神といい、当初は川間奥にある通称お伊勢山の中腹にありました。明治の頃にお伊勢山の入口に移され、さらに昭和の初めに現在地へ移されました。
 大禄天は第六天(多化自在天)に語呂が通じ、修験者の信奉した仏神といわれています。
 道の分れる所を守り邪霊の侵入を阻止する神としてお祀りしています。
 お社の漆喰彫刻は浦賀の神社仏閣に見られる特徴です。
 祭日は五月中旬の土・日曜日です。
 
 
 大六天榊神社は横須賀市西浦賀の川間に集落の鎮守として祀られている小さな神社で、川間集落の谷筋を見下ろす尾根の中腹にひっそりとした姿で鎮座しています。
 
 ところで、社名にもなっている大六天ですが現在ではあまり馴染みの無い神名で、初めて聞いたという方も多いのではないかと思います。一体どのような神様なのか、非常に気になるところですが、残念ながら大六天には不明な点が多く、現在でもはっきりとしたことはわかっていません。ただ、江戸時代には関東のあちこちで祀られていた非常に身近な神様だったことが知られています。
    (概要は茅ケ崎市鎮座の
第六天神社 を参照)
 
 
参道
坂道の先に境内
鳥居
鳥居
 
 さて、川間に鎮座する大六天についてですが、『新編相模国風土記稿』の西浦賀村・西浦賀分郷には弟六天社に関する記載はなく、神社庁所管社でもないため由緒についてわかることは神社境内にあった案内板の記述のみです。
 
 これだけでは殆ど何も分らないというのが正直なところですが、「道の分れる所を守り邪霊の侵入を阻止する神」と記されているところをみると、道祖神やサエノカミとほとんど同一の神様として信仰されていたようにも思えます。それともこれは、(恐らく明治の神仏分離前後に)当社の祭神が衢の神である猿田彦神とされるようになってから、新しく考案された御神徳なのでしょうか?
 
 
 
 もとよりはっきりした事はわかりませんが、弟六天が道祖神・サエノカミと深い関わりがあるとする指摘があることは確かで、古くは吉田東伍も『大日本地名辞書』に第六天信仰の原始的な姿を路傍の石神や石祠に求め、悪鬼を石でふせぐ道祖神のような性格ではないかと推測しています。
 
 また、『取手市史余禄 弟三号』では今日残されている第六天についての解釈を四通りに分類し、「単なる石祠や石を神体として第六天とするもの」として次のような説を紹介しています。
 
 
屋根の上に狛犬
屋根の上に小さな狛犬
   
 
 現在でも、神社の背後や境内に、大六天・第六天という石祠をみかけるが、これらは道祖神にも似ている。古くから石神は民衆に信仰されて、村はずれには道祖神、道陸神がたてられて、村内に悪いものが入るのを拒んだ。この道陸(六)と大六との語呂が相通ずることから、大六天も路傍においたという説もある。また、石を神体とする神社は多く、大六天も同様であった。
                           (取手市史編さん委員会 『取手市史余録 第三号』 昭和54年)
 
 
 
扁額
扁額
 
 あらためて川間の大六天について見てみると、今でこそ集落を見守るような位置に鎮座している大六天榊神社ですが、明治より以前は「川間奥にある通称お伊勢山の中腹」にあって集落からはだいぶ離れた場所にあったことが窺えます。この旧社地には今でも小さな社が残っていますが、古い地形図で確認すると、村はずれの山道の傍ら、集落の後背地にあって、防障の神の祀られる場所としては確かに相応しい所と言えそうです。
 
 他にもこうした例は存在するようで、縁切り榎で有名な板橋の第六天祠がある場所も元々は宿場の外れだったようですし、東日暮里には猿田彦神と習合した元第六天の神々森猿田彦神社が鎮座しています。また、子供の守護神として祀られる弟六天や耳病に霊験ありとされる第六天、祈願すると子宝を授かるという大六天といったものも各地にありますが、これらも道祖神信仰との強い類似性を感じさせます。もっとも、これだけで第六天を道祖神やサエノカミと同一の信仰だ、などと言うのはさすがに乱暴だと思いますが、少なくともこれを祀る側にあっては第六天の神徳の一つとして疫神悪霊などの災いを防ぐ塞ぎの力を期待した、また、もともと第六天は道祖神やサエノカミと習合しやすい神であった、ということは言えそうです。
 
 
 
 
 
 
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二万五千分一地形図 「浦賀」 大正十年測図
1/25000 地形図 「浦賀」 大正十年測図
 
川間集落の外れ、地図中の▼で示した地点に今でも大六天の小さな社が残っています。
小祠に建つ明治時代の石碑には「此山上に鎮り玉ふ大六天は……」とあるので、ここが大六天榊神社の旧社地なのでしょう。
小祠の鎮座する山はかつて伊勢講があったためお伊勢山と呼ばれています。
現在、大六天榊神社には併せて神明社が祀られていますが、古くから山上に並んで祀られていたのでしょうか。
何の変哲もない小さな山ですが、ちょっとした信仰の山、集落の共同祭祀地というような場所だったのかもしれません。
川間から小祠へ続く山道を反対側に下れば長瀬や久比里、入り江を挟んで対岸は久里浜です。
勧請以来、大六天はこの山の中腹にあって集落の安全を見守り続けてきたのでしょう。
 
 
 
現在の川間付近の地図
現在の川間付近の地図(承認番号 平19総使、第512号)
 
○で囲った中にあるのが現在の大六天榊神社です。当所の位置(▼)に比べればだいぶ身近になりました。
現在では川間トンネルや長瀬の海岸沿いの車道が整備されたため、旧社地へと続く山道は地形図から姿を消しています。
地元の方のお話だと、伊勢山の小祠へ参る人は今では稀で道も荒れているということでしたが、道径はしっかりと残っていました。
 
余談ですが、旧地形図を見ると現在の自衛隊久里浜駐屯地のある辺りは広い入り江になっていたことがわかります。
『新編相模国風土記稿』ではこの辺りに「元浦賀」という地名を付して、ここが浦賀の旧地、「浦河の湊」であるとする説をとっています。
この説に従えば、浦賀湊はいつの頃か山一つ隔てた隣の浦へ移ったということになります。
説の真偽は不明ですが、江戸時代に内川新田が拓かれる以前は平作川の奥深くまで広大な入り海を成していたことは確かで、
頼朝挙兵の折、衣笠城合戦で敗れた三浦氏の一族はこの浦から舟に乗り安房に脱出したとも言われています。
周辺には内陸深くまで房総や海に関係のある伝説の残る寺社が散在していますが、
これらもかつて広がっていた入り海と平作川を介した交通の歴史を物語っているものなのかもしれません。
下流部には徐々に土砂が堆積し入り海は後退していったようですが、
最後は大正十二年の関東大震災で土地が隆起。入り江に海水が戻ることはありませんでした。
 
 
 
 
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 ところで、第六天と同じく複雑な神格と信仰をもった神様の一つにミシャグジ神(社宮司など多くの字があてられる)があります。『石神問答』で言及されて以来、多くの人が色んなことを言っていますが、『石神問答』でこの神の問題をとりあげた柳田国男氏自身は「サグジ又はシャグジも塞神の義にして……」と、これを障神・塞神と考えていたようです。実際の社宮司の信仰は多様で、必ずしもそれだけで割り切れるものではないようですが、やはり近い部分があったのでしょう。
 
 『日本の神々 神社と聖地』では、この社宮司神の分布と同様の地域を密分布地帯とする神々として第六天についても言及しているので以下に引用してみたいと思います。
 
 
漆喰彫刻
社殿の漆喰彫刻
   
 
 【社宮司神】  『石神問答』のなかに、武蔵・相模・伊豆・甲斐・信濃・遠江・飛騨・志摩・伊勢・尾張・三河の諸国にあると書かれているように、近江国以西にはなく、武蔵も埼玉県の児玉郡と本庄市を境としてその東にはない。この分布から社宮司神は、信濃国諏訪を本源とする信仰圏内にあった神と考えられる。その点、道祖神の密分布地帯とよく似ている。信濃国では「御社宮司」と呼び、諏訪大社の一年の祭事は元旦の御社宮司神の祭事に始まるといわれるほど神聖な地主神である。そしてこの社宮司神の本源は、代々諏訪大社の神長官を司る守矢家の氏神である。
 
 【第六天】  信州の諏訪路をゆくと、各集落ごとに「第六天」「大六天」「第六天魔王」と刻まれた石碑がある。そのうえ諏訪地方には「第六天御社宮司」という言葉すらある。この言葉を裏づけるように、社宮司神と第六天との分布範囲はよく似ている。 (中略)第六天は悪魔とされているが、もともとは修験者(山伏)が信奉していた仏神であろう。その分布は中部地方から関東にかけて多く、関西以西にはなく、東北地方にはまま見うける程度で、相模国を境として東にはわりあい少ない。
                      (谷川健一・編 『日本の神々 神社と聖地 第十一巻』 2000年 白水社)
 
 
 
境内
小さな境内
 
 以上の説明の細部に関しては異説もありますがここでは置いておくとして、これら第六天と社宮司神の分布の重なりは何か意味があるのでしょうか。それとも単なる偶然なのでしょうか。
 
 いずれにしろ、いくら民俗信仰とはいえ第六天などという聞きなれない神の名を刻んだ石碑や祠が、ある時期を境に自然発生的、相互無関係にあちこちで建てられたとは考えにくく、背景に古くから続く素朴な信仰があったとしても、それに形を与え具体的な名を持った信仰として確立するためには専門の宗教者の関与が必要不可欠だったと思われます。
 
 
 
 いつの時代に、どのような人達が、どのような信仰として広めたのか、これらが具体的にわかってくれば第六天についての理解もより深まるものと思われますが、そうした時に、第六天と分布を同じくする他の信仰は、第六天とは何かを知るうえで重要な手がかりを与えてくれるものなのかもしれません。
 
(『日本の神々 神社と聖地』では言外に諏訪の修験者の影がちらついているように感じられますが)
 
 
稲荷社
稲荷社
神使の狐
稲荷の狐
 
 さて、ここまで道祖神やサエノカミ、社宮司神との関連を書籍などから拾って足早に見てきましたが、初めに述べたように結局のところよく分らないというのが第六天です。社宮司神もそうですが、様々な信仰と習合し、時には新たな信仰を分離しながら常に転化していくのが民俗信仰というもの。第六天も地域によって、また時代によって、その信仰の内容を複雑に変化させ、それが今日において第六天の信仰をわかり難いものにしている主な原因なのでしょう。
 
 サエノカミに近い性格が第六天の本来の神格なのか、それとも後になって習合されたローカルな神格なのか。今となっては確かなことはわかりませんが、個人的には第六天が民間に広がった初期にあっては、集落や人々を疫神悪霊などから守る防災・防疫神として祀られた、あるいは、その前身として路傍の石神や土地の神のような集落の素朴な守り神があって、いつの時代にかより強力な威力を持つ新しい神として喧騒され、土地の信仰を取り込みつつこれにとって変わっていったのではないかと、全くの空想で恐縮ですが、そんな気がしています。江戸の第六天信仰は個人祈願の形態が多いともいいますが、これらは近世になって都市部などで信仰の主体が個人に移るなどして第六天の福神としての側面が強調されるようになった結果なのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 訪問したのは昨年の十月。京急の浦賀駅からのんびり歩いての参拝です。住宅地裏の坂道を登ると小さな境内。参拝が午後遅くなってしまったため、南側に山を抱える境内はすっかり陰の中に入ってしまいました。社殿に画かれた漆喰の彫刻は浦賀独特のもの。鰯問屋と廻船問屋で栄えた浦賀は昔から土蔵造りが盛んで、漆喰壁を塗る左官職人も多く、中でも川間の石川善吉は「三浦の善吉」として全国的に知られる漆喰細工の名人だったと言われています。
 
 社殿の前には一対の狛犬。建立年等は不明です。石膏か何かを吹きかけたような独特の造形。荒っぽく精悍な雰囲気が漂っています。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
  狛犬(背中)
狛犬(背中)
 
 
 ところで、かつて伊勢山の山腹にあったという旧社地はどんな所だったのか。少し気になって丁度参拝に来られた地元の方に聞いてみると、今でも山上に小さな社があるとのこと。もっとも、そこまでの道が悪く、最近では参拝する人も稀だそうです。悪路を歩くのは慣れていますし、せっかくなので旧社地にあるという社まで行ってみることに。
 
 
 
 こちらが山道の様子。登り口がわかりにくいということで、そこまで連れて行って頂きましたが、山道自体はしっかりしています。(倒木や分岐も多いので注意が必要ですが)
 
 
旧社地へと続く山道
旧社地へと続く山道
旧社地にある大六天祠
旧社地にある大六天祠
 
 登りはじめてから15分ほど。頂上付近で尾根を少し引き返すように戻った所が旧社地です。
 
 森の中にぽっかりと空いた小さな空間。頭上には樹木が覆いかぶさるように枝を伸ばし密やかな雰囲気につつまれていました。
 
 
 
 
 
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          大六天榊神社 訪問
2011/10  
                 登録
2012/3/10