前鳥神社(さきとりじんじゃ)
前鳥神社  
 祭神

  菟道稚郎子命
  大山咋命
  日本武尊
 
 
 旧社格等

  式内 相模國大住郡
  前鳥神社
 
  相模國四之宮
 
  旧郷社
 
 
 住所

  神奈川県平塚市四之宮
4-14-26
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社 御由緒
 
 
 当神社は延喜年間に編纂された『延喜式』神名帳に記載された、延喜式内社であります。
 神社名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、ご祭神を氏の上とする氏人が移り住み、お祀りをしたのが前鳥神社と言われ、千六百四十余年の歴史を有しております。ご祭神の前鳥大神を慕い、古くより修学の神、学問の神として広く尊崇されております。また、渡来人技術者を篤く庇護し、農業、土木建築等の急速な発展をなされましたご祭神は、農業技術の神としても崇敬を集めております。
 
 
 
 前鳥神社は延喜式記載の相模国大住郡前鳥神社に比定されている式内小社で、相模川と花水川との間に形成された砂丘台地の東端に相模川の流れを間近に望んで鎮座しています。
 
 前鳥は現在では「サキトリ」と読んでいますが、本来は「前島:サキシマ」であり、島を鳥と誤記したことから発生した名称とする説が有力です。
 
 前鳥神社の鎮座する平塚市の大部分は、現在では住宅地が密集していて地形を読み取ることが難しくなっていますが、実際には海岸線に並行してのびる何列もの砂丘の連なりの上に存在していることが知られています。これは縄文時代にこの辺りが海の底だった頃の名残で、温暖化による海面上昇の結果、当時の海岸線は今よりもずっと内陸深くまで侵入していたことがわかっています。
 
 
参道
木漏れ日の参道
鳥居
鳥居
 
 その後、徐々に海面が後退し、堆積した土砂が吹き上げられて砂丘や砂洲が形成されていくのですが、砂丘地帯後方の微高地に今でも残る大島や小鍋島といった地名は、こうした古い時代の記憶を留めているものと考えられています。前鳥神社の鎮座する四之宮周辺は最も古い時代に形成された砂丘の先端に位置しているので、砂丘の島、もしくは水辺に突き出た岬であって古くは「サキシマ」と呼ばれていた、というのが前島誤記説の主張するところのようです。
 
 
 
 この誤記説は郷土史家等を中心に広く支持されているようで、例えば『特選神名牒』は「当社の境域は馬入川の岸に突出して、出水のために多く流損ず崎処と云うべき地勢なれば前島神社と云るならんと云えり」として、前鳥神社をわざわざ前島神社と書き直して掲載し、『式内社の研究』も「前鳥では意味が不明であるから牒の前島神社を妥当とすべき」として「突出した崎のある島=崎島に由来すると思われる」と述べています。
 
 また、『相模の古社』も誤記説をとった上で「サキシマ」という社名について以下のように考察しています。
 
 
緑のトンネル
緑濃い社域
   
 
 サキジマという地名のサキとは何を意味するかというと、前記の砂丘の島の対岸の寒川付近から望んでのサキの意であろうと考える。寒川には、相模国でもっとも古くから勢力のあった豪族が、寒川神社を奉斎し、その一族郎党を従えて定住し、そうとう広く農耕を営んでいたから、彼等が目前の海中の島を見て、サキジマと呼んでいたものと思われる。その時代はおそらく古墳時代も古いころであったろう。それが奈良朝ごろまでのあいだに、前島神社の社号を、たぶん神祇官によって前鳥神社と誤記されたかどうかして、地名も、いつしかサキトリといわれるようになったのではなかろうか。
                               (菱沼 勇・梅田義彦 『相模の古社』 昭和46年 学生社)
 
 
 
鳥居
参道脇の鳥居
 
 ところで、鎮座地周辺の地名がサキシマからサキトリに変わったとするなら、それはいつの頃からなのでしょうか? これについては、天平七年(735年)の相模国封土租交易帳に「大住郡埼取郷」とあり、平安時代に書かれた『和名抄』にも「大住郡前取郷」とあるので、奈良時代初期には既に「サキトリ」と呼ばれていたことがわかっています。
 
 
 
 『相模の古社』では、これらを踏まえて誤記された時期を「古墳時代から奈良朝までのあいだ」と想定している訳ですが、『式内社調査報告』は「当社地のあたりがかつて砂丘の島であったとの説に反対するのではない」としながらも、「社名の前鳥は和名抄などに所載の前取郷に由来し、その前取郷に鎮座している神社と考えられる」と述べて「鳥を島の誤記であるとすることには、さらに厳密な考証が必要とされる」とやや否定的な考えを示しています。
 
 
拝殿
拝殿
 
本殿
本殿
 
 創祀の年代はわかっていませんが、社伝によると養老年中以前の創建とされ、畿内から御祭神(菟道稚郎子命)を氏の上とする氏人が移り住み、その遺徳を偲んでこの地にお祀りしたことに始まると伝えられています。
 
 神社に伝わる伝承以上のことはわかりませんが、鎮座地周辺の四之宮、真土、中原といった辺りからは弥生時代の遺跡や遺物が発掘されるなど、少なくとも弥生時代中期には農耕に従事する人々が移り住み集落を営んでいたことがわかっています。
 
 また古墳時代には三角縁神獣鏡の出土で有名な大塚山古墳が真土に築かれることになるのですが、相模では最大級の前方後円墳である当古墳について『武蔵と相模の古墳』では、「外に開かれた水門(港)ともいうべき、相模川河口部の砂丘上に造営されている点は示唆的である」とし、「四世紀前半から中葉にかけてのヤマト王権の東日本への伸張に呼応した首長として理解したい」と述べています。砂丘地帯の生産性はあまり高くなかったと考えられていますが、少なくとも鎮座地周辺は当時の首長層や畿内王権にとって非常に重要視された場所だったことは確かだと思われます。
 
 
 
 
 下って律令時代、相模国の国府は四之宮付近にあったことが考古学的成果によってほぼ確実視されていますが、当神社は国府から最も近い神社として国司の崇敬を受けたのではないかと思われます。当社が延喜式に記載され四之宮とまで称されるようになったのには、そのように時代を通じて人々の信仰を集めた背景があったからではないかと個人的には考えています。
 
 
 
 現在は菟道稚郎子命、大山咋命、日本武尊を祀っている前鳥神社ですが、このうち大山咋命は明治四年に村内の日枝神社を合祀した際に加えられたもの、日本武尊は昭和六十一年に新しく祀られるようになった御祭神なので、本来の御祭神は菟道稚郎子命一柱ということになります。『新編相模国風土記稿』も当社の祭神は菟道稚郎子命と記載しているので、少なくとも江戸時代から現在に至るまで祭神は菟道稚郎子命で一定しています。
 
 それでは菟道稚郎子命とはどのような神なのでしょうか。記紀によれば、菟道稚郎子命は応神天皇の皇子で、阿直岐、王仁という二人の学者について諸々の典籍を学んだ聡明な人物だったとされています。応神天皇にも愛され、兄皇子らをおいて皇太子にたてられますが、父帝の死後は「兄(大鷦鷯命)をさしおいて即位するわけにはいかない」と位を譲り、一方の大鷦鷯命も「先帝の意思であるから」とお互い譲り合い、皇位は三年間空位のままだったといいます。最後は「兄の志は変えられない。この上は長生きをして天下を煩わせるに忍びない」と菟道の宮居で自害したとされています。このあと皇位を継いだのが兄の大鷦鷯命・仁徳天皇です。
 
 
拝殿社頭
社頭
 
 
 この菟道稚郎子命を主祭神とする神社は全国でもそう多くはなく、式内社では京都の宇治神社と宇治上神社があげられますが、関東の式内社では前鳥神社だけだと思われます。宇治は菟道稚郎子命の宮居があった場所とされているので納得がいきますが、何故遠く離れた相模国に菟道稚郎子命を祀る神社があるのでしょうか。創建当初から菟道稚郎子命が祀られていたのかどうかは定かではありませんが、もし途中で加えられた御祭神だとしても全く無関係な神を祀るというのも考えにくい話だと思われます。もとよりはっきりしたことはわかりませんが、これに関して『相模の古社』では次のような推測を載せています。
 
 
   
 仁徳天皇は菟道稚郎子命が自害された後、その弟太子のために、名代をこの付近に設けられたのではなかろうか。『万葉集』巻二十に、武蔵国豊島郡上丁椋椅部荒虫の妻、宇遲部黒女という者の歌が載せられているから、武蔵国の豊島郡かその近くに、宇遲部という名代のあったことが推定されるが、相模国にも、同名の名代があったとしても決しておかしくないのである。
                               (菱沼 勇・梅田義彦 『相模の古社』 昭和46年 学生社)
 
 
 
 
 訪問したのは五月の下旬。神社に併設された大きな駐車場に車をとめて参拝です。
 
 駐車場から続く参道は桜並木になっていて、県下では桜の名所としても知られているところです。花もいいですが陽光を透かして輝く新緑もなかなかのもの。鳥居の先は樹木が覆いかぶさるように伸びていて、参道に濃い陰を落としています。鳥居の脇には宮鐘と忠魂碑。この忠魂碑の建てられている場所は周囲から一段高く盛り上がっていて、『相模の古社』では古墳の跡として紹介されています。
 
 
境内
清々しい境内
 
 
 鳥居の前には狛犬が一対。昭和とか岡崎とか言われるタイプのもの。昭和五十七年八月吉日建立。銘には「四之宮 共有解散記念」とあります。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
 
 参道脇の祖霊社の前にも狛犬が一対。江戸唐獅子とか関東型とか言われるタイプのもの。大きな耳のデザインが面白いですね。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
狛犬(背中)
狛犬(背中)
 
      大正七年九月二十八日建立
      東京市京橋区東港町
             新倉源太郎
 
 
 
      昭和五十七年十月吉日
      表参道より移転修理
 
 
狛犬(右)
力強い眼差し
 
 
 本殿脇にある小さな社の前にも立派な狛犬が一対。はじめ昭和などと言われるタイプのもの。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
 
 
狛犬(背中)
狛犬(背中)
 
      昭和十六年四月吉日
 
 
      茅崎町円蔵出身
          上原常吉
 
 
厳しい顔
厳しい顔
祖霊社
祖霊社
 
 参道脇には狛犬に守られて祖霊社が鎮座。
 
 境内社の奨学神社は昭和四十三年の創建。百済の王子阿直岐と博士王仁、そして菅原道真公を御祭神とする奨学の神社です。
奨学神社
奨学神社
神戸神社
神戸神社
 
 同じく境内社の神戸神社は、境内にあった神明社と八坂神社を合祀したもの。祭神は天照大御神と須佐之男命です。
 
 本殿の脇にも小さな社がいくつかありますが、名前が書いてないので詳細は不明です。狐がお供している小祠は稲荷だと思われます。
境内社
境内社
境内社
境内社
 
 『新編相模国風土記稿』には末社として「牛頭天王、天神、稲荷2、聖天」の記載があり、『式内社調査報告』は現在の境内神社として「八坂神社、神明宮、天神社、稲荷神社、奨学神社」をあげています。牛頭天王・八坂神社と神明宮は神戸神社に合祀されているので、これらの小社は天神、稲荷、聖天のいずれか、もしくは合祀される前の社がそのまま残っているのかもしれません。
 
 
 
 
  >地図 【yahoo! Mapへ移動】
 
  >旅の道標 BLOG 【ご指摘コメント等が御座いましたらお気軽にどうぞ】
 

 >トップページに戻る
 
 
             前鳥神社 訪問
2011/5  
                  登録
2011/7/7