寒田神社(さむたじんじゃ)
寒田神社  
 祭神

  倭建命
  弟橘比売命
  菅原道真公
  誉田別命
 
 
 旧社格等

  式内 相模國足上郡
  寒田神社
 
  旧縣社
 
 
 住所

  神奈川県足柄上郡
  松田町松田惣領
1767
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社 御由緒
 
 
 ご創建は仁徳天皇三年(西暦三一五年)と伝えられ、平安時代には延喜式の神名帳に相模国の十三社の一つとして載っている古社です。
 思うに一万年ぐらい前から堆積や地震による隆起により足柄平野が形成され開拓が進められてきた過程で人々の心の拠所としてこの地に建てられた神社であります。
 源頼朝はしばしば立ち寄った松田亭より年々玄米十石を奉献し、徳川家光も朱印地百五十石を寄進するなど尊崇されてきました。
 時代はさがってアメリカ最初の宇宙飛行士ジョン・グレンさんも当社の祈祷神札を受けて無事成功され大願成就の参詣をされた。
 昭和十六年に県社になり昭和四十三年には神社庁より献幣使の参向する神社に指定されている。
 
 
鳥居
鳥居
 
 寒田神社は延喜式記載の相模国足上郡寒田神社に比定されている式内小社で、かつては大変な暴れ川として知られた酒匂川の左岸台地上に鎮座しています。
 
 神社名の寒田ですが、『新編相模国風土記稿』に「神田明神社(加牟駄美宇茲牟也志呂 かむだみやうじむやしろ)、延喜式神名帳に載する寒田神社是なり」とあって、江戸時代には「カンダ」明神社と呼ばれていたことがわかります。
 
 
 
 寒田を「サムタ」と呼ぶか「カンダ」と呼ぶかについては両説あるようですが、『新編相模国風土記稿』は先の説明に続けて「按ずるに、寒田は左無多(さむた)の唱へなるを、いつの頃よりか、寒を音にて唱へなれしより、和訓神の音便と混じ訛りて、今の文字に書き改めしと覚ゆ」と述べて、「寒田(サムタ)→カンダ→神田」に変化したものと推測しています。
 
 
境内
境内には巨木も多い
 
 元々どのように呼ばれていたのか今となっては定かではありませんが、比較的最近刊行された『式内社調査報告』『相模の古社』、また『日本の神々 神社と聖地』も「延喜式神名帳全体で社名を音訓みにする例は稀」として『新編相模国風土記稿』の説を支持していることから、近年では「サムタ」説が優勢と言えそうです。
 
 
講社塔
堅牢地神と仙元大神の石塔
 
 創祀の年代はわかっていませんが、当社の起源は相当古い時代にまで遡れるのではないかと考えられていて、神社には創建当時の祭祀に使用されたという弥生時代の椀一組も残されています。
 
 現在は主神に倭建命、相殿に弟橘比売命、菅原道真公、誉田別命を祀っている寒田神社ですが、このうち弟橘比売命は文明四年(1472年)の社殿再建に伴い合祀されたもの、菅原道真・誉田別命は、それぞれ大正二年、昭和三十六年に近隣の天神社・八幡社を合祀した際に加えられた御祭神です。つまり、元々は倭建命一柱を祀っていたと言うことになる訳ですが、『特選神名牒』は「今按、社伝祭神日本武尊と云るは総国風土記の説にて信じがたし」とこれを否定しています。
 
 『日本総国風土記』は和銅六年(713年)に元明天皇の詔により編纂された、所謂「官撰の風土記」としては偽書ではないかと言われている文献です。しかし、現在の寒田神社の周辺に日本武尊命の伝説が色濃く残っていることは確かな事実です。例えば、境内には日本武尊命が腰をおろして休息したと伝えられる腰掛石があり、出典は不明ながら、『日本の神々 神社と聖地』には社前を流れる酒匂川の地名縁起として次のような伝説が載せられています。
 
 
   
 
 
 主祭神の日本武尊については次の伝説がある。すなわち、尊は東征の帰途、この松田に立ち寄り、身替りとして走水の海で入水した弟橘姫命を偲んで酒勾川(現在は酒匂川)に神酒をそそぎ、妃の冥福を祈ったところ、この神酒が海に流れ入るまで香ったので、酒勾川と名づけたという。
                      (谷川健一・編 『日本の神々 神社と聖地 第十一巻』 2000年 白水社)
 
 
 
 
 そうしてみると、『日本総国風土記』の真偽のほどはともかくとして、寒田神社の祭神が倭建命であったとしてもそれほど違和感はないように思います。とは言うものの、それはいつの頃からかと言われれば、さすがに創建当初からとまでは言えないのではないでしょうか。「酒勾川」という名前は鎌倉時代から文献に現れ、それ以前は丸子川、鞠子川、相沢川などと呼ばれていたと言います。寒田神社周辺に記紀の東征伝説が定着し、祭神が倭建命であるとされるようになったのは古くても中世以降の事なのではないかと個人的には考えています。
 
 
拝殿
拝殿
 
 『式内社調査報告』では祭神が倭建命とされていることについて「思うに、祭神を日本武尊とする説は、当神社のあたりを尊が通過されたという伝説により成立したものではなかろうか」と述べ、創建当初の祭神について次のように言及しています。
 
 
   
 
 
 しなしながら、当社の祭神をはじめから倭建命であったとするのもいささか無理があるように思う。倭建命が主神となる前に寒田神を祭った時代があったように考えられる。しからば寒田神とはどんな神かといえば、これを詳らかになし得ないのである。
               (式内社研究會・編 『式内社調査報告 第十一巻』 昭和51年 皇學館大學出版部)
 
 
 
 
 
 何より千年以上も昔のこと、今となってははっきりしないことばかりですが、寒田神社の当初の祭祀について推測することは可能かもしれません。それには寒田神社の名前と鎮座地が手がかりになりそうです。
 
 『相模の古社』では「寒田」は本来「サムタ」と読むとした『新編相模国風土記稿』の説に同意した上で以下のようにその起源を推測しています。
 
 
本殿
本殿
   
 
 それではサムタとは、どのような意味であろうか。サムというのは、「清い」とか、「神聖な」とかいう意味である。相模国一の宮の寒川神社の「寒」も同じことであって、今日普通に用いられている「暑い」の反対の意味ではないのである。すなわち、寒田とは「清い田」という意味であるから、もともとこの神社の付近に清い田があって、その精霊を祀ったのが、当社のそもそもの起源ではなかろうか。(中略)
 『特選神名牒』によると、「此社、酒勾川の上にして田の中に川岸に向いてませり」と記してあるが、少なくとも明治の頃までは、当社の周辺は水田に囲まれていたものと考えられる。思うに、当社草創の頃には、社殿に近いところにもっとも古い田があり、かつその田のなかに泉が湧いていたか、あるいは近くに泉があって、その水をひいたりして、その田が清く、神聖なものとされていたのではなかろうか。
                               (菱沼 勇・梅田義彦 『相模の古社』 昭和46年 学生社)
 
 
 
 
 訪れたのは五月の休日。神社に駐車場はなく、車はJR松田駅に隣接した町営駐車場にとめて歩いて参詣しました。かつては田んぼの真ん中に鎮座していたと言われますが、現在は周囲一帯住宅地へと変わっていてその面影は感じられません。とは言っても、小さな町の閑静な住宅街に建っているので社域はひっそりとした雰囲気を保っています。
 
 酒匂川の洪水被害に幾度か遭いながらも鎮座地を移った記録はないようで、境内には樹齢八百年と言われる大きな栢の木もあり由緒ある神社であることが伺い知れます。
 
 
境内末社
小祠
境内末社
境内社
 
 境内には小さな祠や社が多いのですが、名前が書いてないので詳細はわかりません。左の写真の奥の社には天神社、神明社、熊野社という札がかかっていたので、これらは『式内社調査報告』にも記載のある境内神社3社だと思われます。
 
  神明社(天照皇大神)
  天神社(国常立尊)
  熊野社(伊佐那岐命)
 
 なお、『新編相模国風土記稿』には末社として神明、熊野、第六天の記載があります。天神社は祭神からすると元は第六天なのかもしれません。
 
 
 
寒田稲荷社
寒田稲荷社
祖霊社
祖霊社
 
 
 本殿の前には左に二体、右に三体の子犬をあしらった見事なつくりの狛犬が一対。獅子山などと言われているタイプのもの。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
 
 今にも飛び掛ってきそうな堂々たる姿です。
 
 
狛犬(左)
狛犬(左)
狛犬(右)
狛犬(右)
 
子犬
甘える子犬達
 
  昭和六年 拾弐月吉日
 
   石工 武井五郎
 
    奉納者 いろは順に28人(名前は略)
 
 
 
 
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            寒田神社 訪問
2011/5  
                 登録
2011/5/15